南條市の民家の台所の餃子の皮に関する奇妙な記録

霧島秀一撮影。住宅の台所にある長方形の作業台。具の入ったボウル、重ねた丸い餃子の皮、水を入れた小鉢、空の皿が置かれている。

地方では、近所の知人同士が月に一度集まり、台所で一緒に昼食を作ることがある。慣れない人には、隣に立った人が手元を見ながら作り方を教える。ほかの人の話を遮らないよう、教えるときは相手の耳元で小声になる。小声は、話した耳の側だけに届く。

餃子の包み方を左耳へ小声で教わっていた人の、右耳から、教える人の声が大きく聞こえた。北都県南條市の有瀬真知子さん(72歳)の家で、2025年2月16日の昼、私はそれを聞いた。有瀬さんは月に1度、近所の知人と昼食を作って食べている。私は以前、この辺りにあった市場の話を有瀬さんから聞いていた。この日は当時の買い物の話ができる人も来るので、食事をしながら話そうと誘われていた。

台所の中央に作業台があり、餃子の具を入れたボウルと丸い皮が置いてあった。有瀬さんに断り、皆が手を洗いに行っている間に台所を撮った。戸根田淑子さん(68歳)は初めて来た人だった。家では餃子を包むことがなく、有瀬さんに見てもらいながら作ると言っていた。作業台の向こうでは、もう1人の参加者、川添久実子さん(75歳)が皮を並べていた。戸根田さんは私に近い側に立ち、有瀬さんがその左へ入った。私は台の短い辺に寄り、皿を拭いていた。

戸根田さんは皮へ具を載せた後、縁へ水を付けた。折った皮の端を指で寄せると、中央が開いた。横から有瀬さんに見せ、ひだを作るのはどちら側かと小さく尋ねた。川添さんは自分の分を包みながら、市場の魚屋について私へ話していた。有瀬さんはその話を遮らず、戸根田さんの左耳へ顔を近づけた。

「手前の皮を、少しだけ寄せて」

私のすぐ横で、有瀬さんの声がした。川添さんも顔を上げた。有瀬さんは戸根田さんの頭の向こうにいたが、声は私に近い右耳から出ていた。

「そのまま、向こう側とつまんで」

戸根田さんの唇は閉じていた。右の耳には髪が掛かっておらず、穴の入口まで見えた。何も差し込まれていなかった。その耳のすぐ脇で、有瀬さんが普通に話すより大きな声を聞いた。私は皿を置いた。有瀬さんが顔を離し、どうしたのかと聞いた。今度は頭の向こうから、本人の声がした。戸根田さんの右耳からは聞こえなかった。

耳の方から声が出ていたと伝えると、有瀬さんは戸根田さんの後ろを回り、右側へ来た。戸根田さんも、手に載せた皮を小皿へ置き、大きな声だったかと尋ねた。私はうなずいた。本人には、有瀬さんが耳元で話す小さな声として聞こえていたという。有瀬さんは戸根田さんの右耳に顔を寄せたが、そこからは何も聞こえない。戸根田さんは首を傾け、痛みや詰まった感じはないと答えた。

川添さんが台の向こうから来た。戸根田さんの右側には有瀬さんが立っていたので、左へ回った。小皿の餃子が開いたままなのを見て、戸根田さんの耳元へ顔を寄せた。

「その皮、乾くから。お皿ごと覆っておこうか」

川添さんの声が右耳から出た。川添さんは顔を離し、「今のも?」と尋ねた。その問いは川添さんの口から聞こえた。私は戸根田さんの斜め前におり、声が出ている間、戸根田さんが口を動かしていないところを見ていた。戸根田さんは「お願いします」と、自分の声で川添さんへ答えた。誰も耳の近くで話していない間は、戸根田さんの耳から声はしなかった。

戸根田さんは、こんなことは初めてだと言った。右から話したら左から出るのかは、その場では試さなかった。戸根田さんは手を洗いに立ち、戻ってくると、包みかけの小皿を引き寄せた。もう一度包んでみたいと言い、有瀬さんは左隣へ戻った。私は3人に、今見たことを記事にしてよいか尋ねた。顔は載せないでほしいと戸根田さんに頼まれ、作業台と手元だけを撮った。川添さんの大皿には閉じた餃子が並び、戸根田さんの小皿には、開いた1つが残っていた。戸根田さんは撮影の間だけ両手を引き、撮り終えると、同じ1つを取り上げた。

霧島秀一撮影。作業台の手前の小皿に、具を入れて半分に折り、上の縁がまだ開いている餃子が1つ置かれている。向こうの大きな皿には、縁を閉じた生の餃子が数個並ぶ。
霧島秀一撮影。2025年2月16日、同じ作業台。手前の小皿には戸根田さんの包みかけがあり、向こうの大皿には川添さんが閉じた餃子が並んでいた。

撮影の後、戸根田さんは前掛けのポケットから、小さく畳んだ紙を出した。耳鼻科でもらった聴力検査の結果で、外出のときはいつも持ち歩いているという。グラフの左耳の線は、右耳の線よりずっと下にあった。去年の秋の日付が入っていた。

戸根田さんの左耳は、子どもの頃の病気の後から、ほとんど聞こえていない。人と話すときは、いつも右耳を相手の方へ向けてきた。有瀬さんが左耳へ話し掛けたとき、戸根田さんは声がしたことに気づいていたが、言葉は右耳の方で聞き取っていた。今日は、左から話し掛けられても、いつもより楽に聞き取れたと思っていたという。

有瀬さんは、そのことを知らなかった。左隣に立ったのは、台所の配置でたまたまそうなっただけだった。川添さんも、空いている側へ回っただけだと話した。

戸根田さんは、この集まりに誘われてから3か月、来るのをためらっていた。台所で皆が一度に話すと、聞き取れない言葉が増える。聞き返すのが申し訳なくて、分かったふりをしてしまうという。夫が生きていた頃は、外で人に会うと、夫が右耳の側で言い直してくれていた。言い直すとき、夫の声はいつも少し大きくなり、周りの人にまで聞こえてしまった。戸根田さんはそれが恥ずかしかったが、止めてほしいと言ったことはなかったという。夫は2年前に亡くなった。

「今日は、言い直してもらわなくても、全部聞こえたんです」

戸根田さんはそう言って、作業台の餃子を見た。有瀬さんは、自分の声が右耳から大きく出ていたのなら、台所中に聞こえていたことになる、と言った。戸根田さんは、それで構わないと答えた。皆に聞こえていれば、自分だけが聞き逃すこともない。

有瀬さんは、来月からは戸根田さんの右隣に立つと言った。戸根田さんは首を振り、左でいい、と答えた。左から話してもらえば、右から大きく出る。それなら、台所のどこにいても、皆が同じ説明を聞ける。川添さんは、自分も左から話すことにすると言った。

有瀬さんは新しい皮で、端を寄せるところをゆっくり見せた。戸根田さんも自分の皮を折り直したが、指を離すとひだが広がった。川添さんは向こう側で、自分の皮の片側を寄せた。

「最初に、そっちから聞こえたので分かりました。片方だけなんですね」

川添さんは戸根田さんの右側を見てから、餃子を閉じた。大きな皿へ置くと、有瀬さんへフライパンを出してよいか尋ねた。有瀬さんは戸棚の方を指した。

戸根田さんは、さっき耳の所で言ってくれた所を、もう一度いいかと有瀬さんに頼んだ。手前を寄せる所かと有瀬さんが聞き返すと、戸根田さんはうなずいた。有瀬さんが左から手元をのぞき込み、顔が耳へ近づいた。

「こっちの皮だけ、少し手前へ」

声はまた右耳から出た。川添さんがフライパンを持ったまま振り返った。戸根田さんは、片方だけ折るんですね、さっきので分かりました、と言った。川添さんが自分の包んだ1つを持ってきて、これでよいかと有瀬さんへ見せた。有瀬さんがそちらへ顔を上げると、耳からの声がやんだ。

戸根田さんは皮を両手に載せたまま、私はまだそこの説明を聞いているので、と言った。川添さんは手を引いた。戸根田さんは右耳の脇にいた川添さんから少し体を離し、聞こえない左耳を、有瀬さんへ寄せ直した。

有瀬さんが口を動かすと、右耳から「いま、つまんでいる方を」と聞こえた。戸根田さんは自分の指を見て、閉じかけていた皮の端を開いた。右側に立つ私と川添さんにも、その次の説明が聞こえていた。