地方の川沿いの土手道は、犬を連れた人の散歩道になっていることが多い。毎日同じ時刻に同じ道を歩き、顔なじみと会えば足を止めて話す。犬は飼い主の手の合図で座り、合図が解かれるのを待つ。合図を出すのは、いつも飼い主の手である。
冨手直央さん(77歳)は、犬へ出した「待て」の手を下ろせなかった。右手は上着のポケットに入っている。それでも足元から伸びる影は、開いた手を上げた姿勢のままで、犬はその方へ顔を向けて座っていた。
2023年12月26日の午後、北都県南條市内の川沿いで見た光景だ。私は冨手さんと、散歩仲間の越坂周平さん(72歳)に会い、土手の道を一緒に歩いていた。冨手さんが連れていたのは、茶色の小型犬のトトである。9歳になる。冨手さんの妻が、子犬のころに選んだ犬だった。
トトには、地面の手の影を見る癖があった。冨手さんが右手を開き、その影を日なたへ出すと座る。手を下げると、立って近づく。子犬の頃に庭で繰り返した遊びで、冨手さんは待たせるつもりで手を出していたという。
「手の方を見てると思っていたんです。下を向いたままでも座るので、影でも分かるんだなと」
このところ、トトが散歩の途中で急に座ることが増えていた。冨手さんは、行きたくない道があるのかと思い、来た方へ戻ったこともあったという。
影が冨手さんと違う動きをするようになったのは、12月18日からだった。その日もトトと歩いていると、影の両腕が頭の上へ伸びたという。本人の左手は引き綱を握り、右手は腰の脇にあった。
冨手さんは近くにいる人の影かと思い、道の端へ寄った。黒い形は靴の先から離れず、本人が移る分だけ横へ動いた。腕だけは頭の上にあり、やがて左右へ開いた。ほかに冨手さんの姿勢と同じ影は出なかったという。
それを見た越坂さんが、昨日の体操に似ていると言った。2人は前日の午後、散歩の途中で肩を回し、背を伸ばしていた。冨手さんは両腕を上げた後、右肘を曲げて頭の後ろへ置き、左手でその肘を引いていた。地面の形も、同じ順に変わった。
時計を見ると、前日に土手へ来ていた頃だった。翌19日には、立って話す冨手さんの影が、屈んで靴の先へ片手を伸ばした。18日の散歩では、冨手さんがほどけた靴ひもを結び直していた。前日の自分を見ているのではないかと考え、越坂さんが私へ連絡してきた。
私は26日、道の広がった所で、2人からその経過を聞いた。冬草の向こうに低い柵があり、ベンチが1脚置かれている。午後の日は川の向こうから差していた。冨手さんの了解を得て、散歩道とベンチを撮った。
冨手さんはベンチに座らず、柵の脇に立っていた。左手で綱を持ち、右手をポケットへ入れている。私は冨手さんの横から足元を見た。
地面の影が屈み、黒い頭が膝に近づいた。両手を下へ伸ばし、片方の手をもう片方に重ねるように動かした。冨手さんの身体は立ったままで、コートの裾も膝より上にあった。影の頭がある所には、ほかの人も物もなかった。
「昨日、ここで綱の留め具を直しました。トトが一度、後ろへ回ってしまって」
冨手さんはそう言った。昨日の散歩にも越坂さんが同行しており、留め具を直す間、犬を待たせたと覚えていた。私は25日の散歩を見ていない。前日との一致は2人の話だが、この場で本人と影が違う姿勢になったことは、私にも見えていた。
黒い形は立ち上がった。続いて右腕を上げ、指を開いた。
冨手さんの右手はポケットに入ったままだった。トトは少し先の草へ鼻を寄せていたが、地面へ顔を戻すと、影の腕の脇に腰を下ろした。頭を上げて冨手さんを見ず、黒い手の方へ鼻先を向けていた。
冨手さんがトトの名を呼んだ。耳が動いたが、腰は上がらない。本人は右手を出し、腿を軽くたたいた。いつも家へ帰るときの呼び方だという。トトは一度そちらを見て、また地面へ顔を向けた。
影の手は下がらなかった。冨手さんは綱を引かず、犬の横へ歩いた。冨手さんが歩いた分だけ影も移り、トトは座ったまま首の向きを変えた。私は断って、本人の下げた右手と、地面の開いた手を一緒に撮った。

越坂さんは、昨日はここで自分が立ち話を始めてしまった、と話した。冨手さんは犬を待たせたまま相づちを打っていたという。今日も同じ長さになるかは分からない。冨手さんは犬へ「もういいよ」と声を掛け、右手を下ろしたまま待った。
越坂さんは、そのとき何を話していたのかを私に教えてくれた。年が明けてからのトトの預け先のことだった。
冨手さんは1月10日から、膝の手術のため3週間入院する。妻は5年前に亡くなり、子どもは県外に住んでいる。その間、越坂さんがトトを家で預かることになっていた。話が決まったのは12月17日、このベンチの前だったという。影が違う動きを始めた前の日である。冨手さんは、手術のことを越坂さんにそのとき初めて話した。越坂さんがその場で預かると言うと、冨手さんはしばらく黙ってから頭を下げたという。越坂さんも以前は犬を飼っていたが、3年前に死なせてから飼っていない。越坂さんの家は土手の反対側の住宅地にあり、トトはその前を通るとき、いつも門の方を見ていたという。
手術は膝を人工の関節に替えるもので、退院した後もしばらくは長く歩けない。
冨手さんは上着の内ポケットから、折り畳んだ紙を出した。17日の夜に書いたという、越坂さんへ渡す書き付けだった。ご飯の量や散歩の道順の下に、合図が並んでいる。
「待て 右手を開いて上げる」
「おいで 腿をたたく」
「横断歩道では必ず待たせること」
「夜は玄関の毛布で寝る」
書き付けを書いた夜、冨手さんは合図を一つずつ、自分の手でやってみながら書いたという。台所で右手を上げると、トトは寝床から出てきて座った。腿をたたくと、足元へ寄ってきた。
越坂さんはまだ、この合図でトトを動かしたことがない。今日は練習のつもりで一緒に歩いていた。ところが、トトは越坂さんの手には座らず、影の手にだけ座るのだという。
「入院中は、私の手はここにありませんから」
冨手さんはそう言って、紙を越坂さんへ渡した。影がいつまで前の日を追うのかは分からない。冨手さんが入院している間、土手に影が出るのかどうかも分からない。
しばらくすると、影の肘が下がった。黒い手が腿の辺りへ戻ると、トトが立った。冨手さんを見上げ、綱の緩んだ分だけ足を進めた。
冨手さんは腰を落とし、トトの首の横を撫でた。越坂さんが「ちゃんと待ったね」と言うと、冨手さんもうなずいた。
越坂さんは、紙を自分のポケットへしまった。冨手さんは綱を持ち直した。私たちは土手から住宅の間の道へ下りた。
信号のない横断歩道の手前で、冨手さんが足を止めた。毎日トトを待たせてきた場所である。トトへ声を掛け、綱を短く持った。右手は上げなかった。
「明日、ここにいるとは限らないので」
トトは座らなかった。冨手さんの足元を見たまま、立って待っていた。車が通り過ぎる間、トトは地面と冨手さんの顔を交互に見ていた。
越坂さんが、冨手さんの横へ並んだ。右手を開き、自分の影を道へ出した。トトはその影を見て、少しだけ腰を落とした。
冨手さんは右手をポケットへしまった。左右を見てから歩き出し、トトも隣を進んだ。向こうの歩道へ上がると、冨手さんは自分の足元から伸びる影の手を見た。影の右手は、ポケットの辺りに下りていた。トトは、その手の方を見ずに歩いていた。



