人を招いて食事をする家には、いつの間にか、決まった客だけが使うようになった食器があることがある。
北都県南條市に住む笹渕清江さん(68歳)の家では、月に一度ほど昼食会が開かれる。集まるのは以前の職場の同僚や知人で、多い日は5人になる。笹渕さんが大皿の料理を食卓に並べ、それぞれが取り皿に取り分けて食べる。取り皿は縁に細い青い線のある白い皿で、6枚そろいの物だ。
食事が終わり、笹渕さんが食器を下げようとすると、元同僚の榎谷昌平さん(66歳)が1枚の取り皿に手を伸ばすようになった。
「それは、私が洗います」
榎谷さんは食べ残しを流し、布巾で拭き、食器棚へ自分で戻す。笹渕さんは、招く側にばかり片付けをさせないための気遣いだと思っていたという。榎谷さんが片付けるその1枚には、内側の底に、人の形をした黒いものが見える。
3月4日、榎谷さんから私に連絡があった。その皿を譲ってもらいたいが、皿の黒い形は自分の足元の影と関係しているようだ、という内容だった。笹渕さんにも話を伝えると、2人で来てほしいと返事があった。3月8日、私は榎谷さんと一緒に笹渕さんの家を訪ねた。
笹渕さんは、食器棚のいちばん上の段から皿を出した。ほかの皿には重ねず、料理を載せる面を上にして置いてあった。榎谷さんがしまった向きだという。皿の中央には、頭と胴、左右の腕、2本の脚がある黒い形が収まっていた。全体でも、私の親指ほどの大きさだった。
初めに考えたのは、焼き物によくある黒い点だった。土に混じった鉄の粉が、焼いたときに黒く出ることがある。笹渕さんは、6枚を買った20年ほど前から、この1枚にだけ汚れのような点があった気もすると言った。ただ、人の形に見えたことはなかったという。
笹渕さんは、残りの5枚も食器棚から出して台に並べてくれた。どれも縁の青い線の太さまで同じで、底には何もない。黒い形があるのは、榎谷さんが毎回選ぶ1枚だけだった。昼食会では客が好きな皿を取るので、ほかの人がこの皿を使った日もあったはずだと笹渕さんは言う。榎谷さんがこの皿を選ぶようになったのは、2月の昼食会からである。
台所の隣は食卓のある部屋で、境の戸は開いていた。窓から日が入り、床に椅子の脚の影が伸びている。榎谷さんは窓際に立ち、私と笹渕さんは流しの脇にいた。皿は、日の当たらない台へ置かれた。榎谷さんの立つ窓際から台までは、4メートルほどある。
榎谷さんが眼鏡を外した。皿の黒い形も片腕を顔へ上げ、下ろした。榎谷さんは眼鏡を持った右手を腰へ添えた。皿の中の人の形も、腰に手を当てた姿に変わった。
私は皿と榎谷さんを交互に見た。榎谷さんは台から離れた明るい窓際にいて、皿へ身をかがめてもいない。それでも、その全身を小さくしたような形が、白い底の上で同じ姿勢を取っていた。釉薬の面に榎谷さんが映り込んでいるのかとも考え、私は頭を左右に動かして見る角度を変えた。映り込みなら、見る位置で場所がずれるはずだ。黒い形は底の中央から動かなかった。
笹渕さんが皿を持ち上げ、「裏には何もないんです」と言いながら伏せた。底の丸い輪が上を向いたとき、榎谷さんの足元から窓と反対の方へ伸びていた影が消えた。靴下の先から床板の継ぎ目まで、日の当たった色になった。
榎谷さんは動いていなかった。すぐ脇にある椅子の脚の影は残っていた。雲で日が陰ったのではない。
「戻してください」
榎谷さんが言うと、笹渕さんは皿を起こした。足元に黒い形が伸び、先ほどと同じ床板の上に肩と頭の輪郭が戻った。榎谷さんは眼鏡を掛け直した。皿の中の人の形も、腕を上げてから下ろした。
笹渕さんは皿を台へ置き、両手を離した。私が見ていた間に、窓やカーテンを触った人はいなかった。動いたのは、手の中で伏せられ、起こされた小皿だった。
皿を伏せたとき、痛みや体の動かしにくさはなかったと榎谷さんは話した。見えなくなったのは影だけである。笹渕さんも、榎谷さん本人の姿が薄くなったわけではない、と言った。私の目にも、窓際の榎谷さんはそれまでと同じように見えていた。
私は、上向きに置かれた皿を撮影した。榎谷さんは窓際から食卓の椅子へ移り、膝に手を置いていた。皿の黒い形も腰を曲げ、両脚を前へ出していた。写真はその形を残したもので、床の影が消えるところは写していない。

榎谷さんが最初に気づいたのは、今年1月の昼食会の後だった。笹渕さんが流しで皿を洗っている間、榎谷さんは窓際で上着を着ていた。床に自分の影がないことに気づき、体を横へずらしても、床は明るいままだったという。
笹渕さんが水切りかごから皿を取り、拭くために上を向けると、影が戻った。榎谷さんはその皿を見せてもらい、人の形を見つけた。榎谷さんが袖へ腕を通すと、その形も片腕を横へ伸ばしたという。
その日は、黒いところをもう少し洗ってみると言って、榎谷さんが皿を引き取った。洗っても形は取れず、上向きのまま拭いて食器棚へ置いた。2月の昼食会では、初めから同じ皿を選び、自分で洗った。ほかの客が食器を下げ始める前に台所へ立ち、その1枚を先に取ったという。「それは、私が洗います」と言い出したのも、この日からだった。笹渕さんには、ほかの食器と重ねないでほしいと頼んでいたが、影のことまでは話していなかった。
「食べに来て、家の食器を気味悪がっているように聞こえるでしょう」
榎谷さんはそう説明した。皿を買い取ると申し出る前に、何を見たのかを誰かに一緒に確かめてもらいたかったという。
譲ってほしい理由も聞いた。昼食会の皿は、片付けの後に重ねられたり、水切りかごに伏せられたりする。ほかの客が手伝えば、誰がどの皿をどう置くかは分からない。自分の家で上向きのまま置いておけば、少なくとも向きだけは自分で決められる、と榎谷さんは言った。
笹渕さんは、皿を譲ることに異存はなかった。榎谷さんが買い取ると言いかけると、代金は要らないと手を振った。流しの脇から乾いた布巾を取り、皿を拭こうとしたが、榎谷さんが自分でやると言って受け取った。
榎谷さんは、料理を載せる面を上にしたまま縁を拭いた。私は、1月から皿がずっと同じ向きで保管されていたのかを笹渕さんへ尋ねた。
「最後はこの向きにしていました。重ねないでと頼まれたので」
笹渕さんが言う「最後」は、客が帰った後のことだった。榎谷さんが片付けた皿を、笹渕さんはもう一度流しへ運んでいた。黒いところが残っているので、自分でも洗ってから戻していたという。水を切る間は、ほかの皿と一緒に伏せていた。
「洗ってあると、言いましたよね」
榎谷さんが布巾を持ったまま言った。
笹渕さんは、聞いていたと答えた。榎谷さんが洗い残したと責めるつもりはなく、黒いところが落ちれば、次に来たときには気を使わせずに済むと思っていたという。
榎谷さんは、どのくらい伏せていたのかを尋ねた。水が切れるまでの1時間ほどだと笹渕さんは答えた。1月と2月の昼食会の日の夕方、榎谷さんは自宅の玄関の明かりの下で、自分の影が見えないことに気づいていた。明かりが暗いせいだと思い、そのままにしていたという。影が戻ったのは、どちらの日も、帰宅してから1時間ほど後だった。
笹渕さんは皿を包めるように、別の布巾を持ってきた。榎谷さんは皿を食卓へ置き、使っていた布巾だけを返した。差し出された布巾は受け取らず、皿の左右の縁を両手で持った。



