地方の陸上クラブの練習記録には、距離の欄が空いたまま、時刻だけが2つ書かれた1投が残っていることがある。
砲丸投の練習では、投げる人がコンクリートの円の中から重い金属の球を押し出し、別の人が落ちた所へ巻尺を持って行く。球は芝地へ落ちると浅く土をへこませる。そのくぼみの手前の縁に巻尺の端を合わせ、円までの距離を測る。投げた人は、球が着地するまで円の中にとどまり、着地してから円の後ろ側へ出る。試合では、先に出るとその1投は無効になる。
2023年5月21日、日曜日。北都県柳瀬市内の陸上競技場で、市民の陸上クラブが練習会を開いていた。巻尺を持つ役を引き受けていた安河内正吾さん(39歳)は、次の1投を測れずにいた。八久保俊明さん(41歳)が投げた砲丸が、芝地から膝ほどの高さで止まったまま、落ちてこなかったのだ。
2人は社会人になってから同じクラブで知り合った。休日に砲丸投の練習をし、片方が投げる間、もう片方が横から動きをスマートフォンで撮る。投げ終えた後で映像を見直すためで、毎回撮るわけではない。
八久保さんは最近、腕で押すことばかりを考えてしまうと、安河内さんに話していた。足で地面を押した力が腕まで伝わる感じを取り戻したいという。この日は、普段よりゆっくり構えた1投を撮ってもらった。
「手から離れたとき、今度は行ったと思ったんです」
球が空中で止まった後、八久保さんが最初に言ったのはそのことだったという。安河内さんは、先に自分の目を疑った。球が落ちるのを待ち、巻尺を持ち直したが、草の上に黒い球が残っていた。
練習会の世話役、羽貫亮一さん(63歳)が投てきを中止し、球の周りへ人を入れないようにした。競技場の職員にも知らせた。羽貫さんから私へ電話があったのは、11時前である。以前からこのサイトを読んでおり、見たことをそのまま書いてほしいという連絡だった。私は20分ほどで競技場に着いた。
円の前には、立入を止めるコーンが置かれていた。その向こうの芝地に、濃い灰色の球が浮いている。球の真下まで、地面との間が空いていた。
最初に疑ったのは、糸や細い針金で吊っている可能性だった。私は職員に許された位置から、球の横へ回った。球の近くには立木や照明の柱がなく、上には空がある。球から伸びる糸や棒は見えなかった。立つ場所を変えても、球の下端と草の先は離れたままだった。職員は、この辺りの芝地の下に配管や電線は通っていないと話した。私は円の後ろから立入を止めている様子を撮り、横へ回った位置でも、球と草の間が写るように撮影した。

次に、安河内さんの映像を見せてもらった。初めは八久保さんの全身が映っている。首の横に構えた球を片手で押し出すと、安河内さんはカメラを球へ向けた。球はいったん高く上がり、芝地へ下りてくる途中で止まった。誰かが後から球を置いたのではないことは、この映像で分かる。
映像の中で、草は風に揺れていた。画面の端を羽貫さんが横切り、八久保さんに、円を出てよいと声を掛ける。球は同じ高さにある。映像は2分ほど続き、電話を掛ける羽貫さんを映したところで終わっていた。
八久保さんは、それまで円の中で待っていたという。練習でも、着地を見るまでは円から出ないようにしてきた。
「試合じゃないから出ていい、と言われて、やっと出ました」
浮いているのはクラブの練習用の砲丸で、重さは7キロ余りだった。安河内さんも、その朝に同じ球を投げていた。そのときは普通に落ち、巻尺で測れたという。
職員と羽貫さんが離れた所で対応を相談する間、私たちはコーンの手前から球を見ていた。近づいてつついたり、下へ手を入れたりはしなかった。私が着いてから20分ほどたったとき、球がすっと下がった。
落下は途中で止まらず、球は芝地へ鈍い音を立てて落ちた。少し転がり、草の上で止まった。球と一緒に落ちてきた物はなかった。私は着地した所を見続けていたが、そこから浮き直すこともなかった。
羽貫さんはすぐには回収へ行かず、全員を円の後ろで待たせた。しばらく様子を見てから職員と近づき、砲丸を箱へ収めた。持ち上げたときには、普段と同じ重さを感じたという。砲丸投を40年近く見てきたが、投げた球が途中で止まったのは初めてだと話した。その球は練習には戻さず、クラブで預かることになった。
私が直接見たのは、球が地面から離れてとどまり、その後に落ちるところである。何が支えていたのかは分からない。
安河内さんは、着地でできたくぼみから距離を測った。8メートルに届かなかった。それまでの練習で八久保さんが届いていた距離より手前である。試合の結果として残すものではないが、八久保さんから、落ちた所だけは測ってほしいと頼まれていた。
羽貫さんは、練習会ごとにノートを付けている。投げた人の名前、投げた時刻、距離を、腕時計を見ながら鉛筆で書く。時刻を書くのは、同じ人が休まずに続けて投げないよう、間を見るためだという。この1投の行には、投げた時刻の「10時55分」と、落ちた時刻の「11時35分」が書かれ、距離の欄は空いていた。球は40分、浮いていたことになる。
私は、落ちる直前に何をしていたかを、それぞれに尋ねた。安河内さんは、相談を待つ間に、撮った映像を八久保さんのスマートフォンへ送ったと話した。送信の画面には「11:35」と表示されていた。羽貫さんがノートに書いた落下の時刻と、同じ1分である。
八久保さんは、届いた映像をすぐに開いたという。
「自分の手から球が離れるところを、そこで初めて見ました。それを見ていたら、向こうで音がしたんです」
映像には、球が止まったところまでしか映っていない。八久保さんが見ていたのは、その手前の、右手が首の横から前へ出る所だった。
「手を離れたところは、すごくよかったんだけど」
距離を聞いた八久保さんはそう言い、自分の画面でまた映像を戻した。ほかの参加者は、用具を片付け始めていた。羽貫さんは、この場所での練習を終えると伝えた。八久保さんは、別の球で1回だけ投げて終わりたいと頼んだ。職員と相談したうえで、離れたもう1つの円を使い、羽貫さんが着地する範囲に人がいないことを確かめてから投げた。
今度の球は普通に飛び、芝地へ落ちた。安河内さんが測ると、その日、それまでに八久保さんが投げたどの球より遠くへ届いていた。8メートルを越えたと伝えると、八久保さんはうなずいた。安河内さんが「今のもよかった」と言うと、首を振った。
「あれとは違う」
2人は安河内さんの車で来ており、帰りも一緒の予定だった。安河内さんは巻尺を巻き、八久保さんへ鞄を渡して、着替えに行こうと声を掛けた。
「先に行っていて。歩いて帰るから」
八久保さんは鞄をベンチへ置き、空になった最初の円へ戻った。安河内さんは、もう球は返したと伝えた。八久保さんは、要らないと答え、スマートフォンを円の外へ置いた。
八久保さんは腰を落とし、球を持っていない右手を首の横へ寄せた。右手を前へ押し出し、左足で体を止める。終わると画面を見に行き、また同じ場所に立った。安河内さんが鞄を肩に掛けて出口へ歩き始めても、八久保さんは顔を上げなかった。
職員から、利用時間が終わると声が掛かった。八久保さんはスマートフォンを拾い、円の外へ出た。鞄を取りに行く途中でも足を止め、右手を首の横へ寄せた。画面で構えを確かめてから、手を前へ出す動きをやり直していた。



