地方の理容店の床に落ちた髪の中には、掃き集めてごみ袋へ入れる前に、緑の葉を開くものが存在することがある。
理容店では、客が替わるたびに、椅子の足元へ落ちた髪をほうきで掃き集める。集めた髪は燃えるごみとして袋へ入れ、店を閉めた後にまとめて出す。客が自分の髪を持ち帰ることは、子どもの初めての散髪などを除けば、まずない。
2023年7月22日、土曜日の午前。北都県柳瀬市で理容店を営む岩丸敏巳さん(67歳)から電話があった。以前、店の仕事について話を聞いたことがあり、私の連絡先を残していた。散髪で床へ落ちた髪から、小さな緑の葉が出ているという。岩丸さんはその髪を客へ返そうとしたが、客の垣沼孝介さん(58歳)は、自分の髪なのだから、いつものように捨てて構わないと答えたそうだ。私は近くにいたので、垣沼さんがまだ待っている間に店へ行けた。
入口で事情を聞き、2人に取材の了承を得た。垣沼さんは散髪用の椅子から待合の席へ移り、短くなった襟足を手でなでていた。夏の間は短くしてほしいと、襟足と耳の周りをいつもより多く切ってもらったという。
岩丸さんの店には理容椅子が1台ある。垣沼さんはこの日の最初の客だった。床に散っているのは、今朝切った垣沼さんの髪だけだと岩丸さんは説明した。黒い毛に、少し白髪が交じっていた。
異変に気づいたのは、髪を洗い終えて垣沼さんを起こし、首に巻いたタオルを外したときだった。椅子の足元に緑色のものがあり、初めは服に付いた草が落ちたのだと思った。ほうきを出そうとしたところ、垣沼さんが、草の下から自分の髪が伸びている、と言った。
私が来たとき、床には葉の付いた髪が2本あった。どちらにも爪の先ほどの細長い葉が2枚ずつあり、その下へ黒い毛が横に伸びていた。片方の黒い毛は5センチほどあった。髪の途中が短い緑の茎につながり、茎の根元からは細い白いものが枝分かれしていた。
岩丸さんが、道具置き場から空の白いトレーを持ってきた。垣沼さんが、葉を押さえないよう、黒い毛の端をつまんで載せた。白いものも一緒に持ち上がり、トレーの底で曲がった。土は付いていなかった。
私は、種が髪に絡んでいたのではないかと考えた。岩丸さんも同じことを考え、床に何か落ちていないか見ていたという。床には、種らしい粒は見当たらなかった。緑の茎の根元を横から見ても、黒い毛に別の草が巻き付いた形には見えなかった。毛は途中で太くなり、そのまま茎につながっていた。
垣沼さんは頭にも葉が出ていないか、岩丸さんに見てほしいと頼んだ。岩丸さんが明かりの下で髪を分けて確かめた。葉や白い根のようなものは見つからなかった。垣沼さんは、頭が痛んだりかゆくなったりはしていないと話した。市内の会社で事務をしており、庭いじりもしないという。
岩丸さんは、この髪を持ち帰るか、垣沼さんにもう一度尋ねた。葉が開いているのを見ると、ほかのごみと一緒に袋へ入れる気にはなれなかった、と岩丸さんは話した。店を開いて35年になるが、葉の付いた髪は聞いたこともないという。
「髪だけなら、持って帰る物じゃないでしょう」
垣沼さんはそう言い、トレーを待合の小机へ置いた。葉を指で折ったり、黒い毛から外したりはしなかった。
岩丸さんが椅子を動かし、足元の毛を集めようとした。まだ床に残っていた短い髪の中で、黒い1本の中央が緑色になっていた。私が指さすと、岩丸さんはほうきを壁へ戻した。
私は床へしゃがんだ。緑の部分は、初めは髪と同じ細さだった。その中央が横へ膨らみ、薄い縁が左右へ分かれた。折り重なっていた2枚が開くように、細長い葉になった。髪の両端は黒いまま床に付いていた。
開いた葉の下から、白い糸のようなものが床に沿って伸びた。先が2つに分かれ、片側が少し曲がった。毛の横にあった砂粒は動いていない。誰も触らない間に、黒い毛の途中から葉と白い枝分かれが出ていた。
垣沼さんも横へしゃがんで見ていた。緑になった所を切って落とせば元の髪になるのか、と岩丸さんに聞いた。岩丸さんは答えず、床の髪をそのまま拾えるよう、薄い紙を持ってきた。
岩丸さんが3本目を紙に載せてトレーへ移すと、垣沼さんは小机の前に座った。白い底の上には、葉の付いた黒い髪が3本並んだ。私は2人に断り、トレーと、まだ毛の残る椅子の足元をそれぞれ撮った。

私が見たのは、床にあった1本の髪から葉が開くところである。最初の2本が変わるところは見ていない。何という植物なのか、育つには何が必要なのかは分かっていない。ただ、床に落ちていた草を、後から髪と一緒に拾っただけではなかった。
岩丸さんは、先月のことを思い出したと言った。カウンターの引き出しから顧客の控えのカードを出した。カードには、日付と切り方の注文が鉛筆で書いてある。垣沼さんは月に1度、たいてい第4土曜日の朝に来る。垣沼さんの欄には、6月24日にも散髪した記録がある。その日の夕方、店を閉める前にごみ袋の口を縛ったとき、袋の中に緑の切れ端がいくつか見えた。誰かの服から落ちた草だと思い、そのまま出したという。袋はとうに回収されており、確かめようはなかった。岩丸さんは、カードの6月24日の欄の余白に、鉛筆で小さく「緑」と書き足した。
「あの日も、朝いちばんは垣沼さんでした」
垣沼さんはしばらく黙ってから、家でも同じことがあったと話した。春ごろから、洗面所の排水口や枕元に落ちた抜け毛に、小さな葉が付いていることがある。気味が悪く、見つけるたびにちり紙に包んで捨ててきた。見つけた朝は、帽子をかぶって出かけたこともある。妻には話していない。店の床なら、ほかの客の髪と一緒に掃かれると思っていたという。
「捨てて構わない、と言ったのは、いつもそうしていたからです」
垣沼さんは、葉のある3本は持ち帰ると言った。家へ置いて、しおれないか見てみるつもりだという。岩丸さんは、トレーを貸すので、後日返してくれればよいと答えた。垣沼さんは水が要るのかと尋ねたが、岩丸さんにも分からなかった。2人は、その場では何もかけないことにした。
岩丸さんは床に残る毛を指して、こちらは片付けてよいか、と聞いた。垣沼さんはうなずいた。岩丸さんがほうきを取ると、垣沼さんは床を見た。
「待ってください。それも、さっき切った分ですよね」
岩丸さんは手を止めた。どれも今朝切った髪だった。私たちが話している間に、その中の1本から葉が出ていた。今は黒い毛のままでも、この後どうなるかは分からない。
垣沼さんは、どのくらい待って変わらなければ捨ててよいのか、と聞いた。岩丸さんは、初めてのことなので決められないと答えた。垣沼さんは、葉のない分も持ち帰りたいと言った。
岩丸さんは、袋へまとめて入れようかと申し出た。垣沼さんは、袋の中で同じように葉が開いたら、押しつぶさずに取り出せるか心配だと話した。白いトレーと同じくらい浅い入れ物が、もう1つないかと尋ねた。
岩丸さんは空き箱を出し、底へ白い紙を敷いた。垣沼さんは箱を床に置き、椅子の脇へしゃがんだ。岩丸さんが横へよけようとすると、垣沼さんは靴の下も見せてほしいと頼んだ。靴底には短い白髪が付いていた。
岩丸さんは片足を上げたまま待った。垣沼さんが、その1本を取って箱へ置いた。葉は出ていなかった。垣沼さんは箱を少しずらし、黒い毛も白い毛も重ならないように、紙の上へ広げていった。



