古い学校の資料室に残る歌集には、今の児童が誰も知らない校歌の歌詞が、印刷されたまま眠っていることがある。
校歌は、学校ができたときや節目の年に作られ、入学式や卒業式で歌われる。歌詞と譜面は歌集や式次第に刷られ、児童は1番から順に覚える。番の数が変わるのは、歌詞を改めるときくらいで、普通はその経緯が学校の記録に残る。
柳瀬東小学校の音楽教員、大島直美さん(41歳)は、2022年2月、卒業式の準備で資料室を整理していて、1965年に刊行された歌集を約40冊見つけた。校歌が作られたのは1952年で、今は3番まで歌っている。古い歌集の1番から3番は、歌詞も譜面も現在のものと同じだった。
その続きに、4番が印刷されていた。大島さんが調べた同じ版の冊子には、どれにも4番が載っていた。1冊へ誰かが書き足したものではない。
大島さんから、資料室に残っていた歌集の写真も受け取った。

4番は「みずうみの そこに ともしび」と始まり、「ふるさとの まどを わすれじ」と続く。1番から3番は、それぞれ学校から見える山、町を流れる川、校庭の桜を歌っている。それらに比べて、その風景だけが学校の周りと合わないように思えた。
柳瀬ダムが完成し、谷の堰下集落が湖の下になったのは1971年である。歌集の刊行から6年後だった。ただ、完成前に計画を知って歌詞を作った可能性もある。古い年号があるだけで、集落の行く末を言い当てた歌とは判断できなかった。
学校には作曲者の手書き原稿も残っていた。教頭の杉本和久さん(56歳)に見せてもらうと、歌詞は3番までで、4番を切り取ったり、書いて消したりした跡は見当たらなかった。歌集の最後のページには「昭和四十年三月 音楽係」とだけある。誰が4番を加えたのかを示す資料は、見つかっていなかった。
杉本さんは、その年の学校日誌も探してくれた。当時の教頭が毎日手書きでつけていた帳面で、1965年4月の欄に「全学年に歌集配布」とある。その横に、同じ字で小さく「四番は読み合わせのみ」と書き添えてあった。理由は書かれていない。
「読み合わせ」は、歌う前に歌詞をみんなで声に出して読み、言葉の意味を確かめることだ。新しい歌を教えるときには普通に行う。ただ、その後に「のみ」と付けて、歌わない番を決めた記録を、杉本さんはほかの年の日誌で見たことがないという。
大島さんが4番を初めて声にしたのは、資料室から音楽室へ歌集を運んだ日の放課後だった。歌詞を確かめるつもりで、旋律に乗せて小さく歌った。隣で書類を整理していた同僚に、口だけ動かしているのかと聞かれた。
大島さんは、自分の声を聞いていた。歌うのをやめ、「今、声が出ていなかったか」と尋ねると、その質問は普通に聞こえたという。
「自分では、いつもの声で最後まで歌っていました。からかわれたのかと思ったんです。でも、同僚の顔を見て、そうではないと分かりました」
その同僚は、2年生を受け持つ男性の教員だった。私が話を聞くと、大島さんの口が歌の形に動き、息を吸う音までは聞こえたという。「声だけが抜けている感じでした。テレビの音を消したときのような」と、その教員は話した。
3月12日、私は音楽室で歌集を見せてもらった。大島さんと杉本さんが同席し、私は大島さんから数メートル離れた机に座った。窓と廊下側の戸は閉めてもらった。
大島さんは、まず4番の歌詞を、文章を読むように声に出した。私は一つずつの言葉を聞き取れた。古い言葉遣いはあるが、聞こえにくい声ではなかった。
次に、同じ歌詞を校歌の旋律に合わせて歌った。大島さんの口と胸が動き、途中で息を継ぐのも見えた。しかし、私には歌詞が聞こえなかった。杉本さんにも聞こえないという。
大島さんが歌うのを止めて「ここです」と言うと、その声は聞こえた。私は、大島さんが普通に話せることを確かめた直後にも、歌っている間の言葉を聞き取れずにいた。
部屋の響き方のせいかもしれない。私は席を立ち、大島さんから1メートルほどの所まで近づいて、もう一度4番を歌ってもらった。片方の耳を手でふさいでも、両方の耳で聞いても同じだった。息継ぎの音と、ページに置いた大島さんの指が紙をこする音は聞こえるのに、歌の言葉だけが届かない。杉本さんも隣で首を振った。「口の形は合っているんです。言葉だけが来ない」
ピアノで伴奏しながら歌ってもらうと、ピアノの音は聞こえた。大島さん自身には、自分の歌声も聞こえるという。1番に戻ると、こちらにも声が届いた。大島さんは、声の大きさを変えたつもりはないと話した。
「家では一度も歌っていません。誰も聞いていない所で歌ったら、自分にも聞こえなくなるんじゃないか。そう思ったら、試す気になれませんでした」
大島さんは、4番の言葉を短く区切って読み直した。「ふるさとの」「まどを」「わすれじ」。その声ははっきりしていた。同じ言葉を旋律へ戻したとき、私には再び聞き取れなくなった。
声を出すふりをしていた可能性を、口の動きだけで否定することはできない。声を機械で測った調査でもない。確かめた範囲は、大島さんが歌う4番を、私と杉本さんが同じ音楽室で聞き取れなかったということだった。ほかの歌い手にも同じことが起こるかは試していない。
1960年代の卒業生には、歌集を配られた覚えのある人もいた。杉本さんの紹介で、1966年に卒業した岩城房江さん(68歳)に電話で話を聞いた。岩城さんも、校歌は3番までしか歌った覚えがないという。4番のことを尋ねると、しばらく黙ってから答えた。
「ありました、4番。音楽の先生が、4番は声に出して読むだけにしなさい、と言ったんです。みんなで一度読んで、それきりでした。歌うと聞こえなくなるから、と言われたような気もします。子どもだったので、何が聞こえなくなるのかは考えませんでした」
岩城さんの記憶は60年近く前のもので、先生の言葉をそのまま覚えているとは限らない。先生の名前も思い出せなかった。歌集は卒業のときに家へ持ち帰ったはずだが、引っ越しの間になくしたという。それでも、4番が「読むもの」として扱われていたという話は、学校日誌の「読み合わせのみ」という書き添えと合う。日誌を書いた教頭と、岩城さんに4番を読ませた音楽の先生が、同じ理由で4番を歌わせなかったのかは分からない。ただ、二つの話は、私たちが音楽室で確かめたことと矛盾しなかった。読めば、歌詞の一字ずつは共有できる。同じ旋律に乗せて歌うと、隣の人には聞こえなくなる。
大島さんが戸惑っていたのは、自分では最後まで聞こえている歌を、隣の人が聞いていないことだった。岩城さんの話を伝えると、大島さんは歌集の4番のページを開いたまま、自分の声がどこへ届いていたのかを考えていると言った。
今年の卒業式では、これまでどおり3番まで歌う。大島さんは式で使う譜面に4番を入れず、古い歌集は元のまま保存することにした。4番のページへ取り消し線を引くことはしなかった。
古い譜面には、3番と同じ位置に息継ぎの印があった。大島さんはその印の所で歌うのをやめたとき、普通の声で私たちに話しかけられたと話した。私はもう一度歌うようには頼まず、そこで確かめるのを終えた。大島さんは歌集を閉じて資料室へ運び、棚の、ほかの歌集と同じ列へ差し込んだ。背表紙の高さを指でそろえてから、資料室の明かりを消した。



