鳴沢岳の北尾根の登山届に関する奇妙な記録

霧島秀一撮影。杉林の登山道の入口に、木の柱に取り付けた金属の箱が立っている。

地方の山の登山口に置かれた登山届の箱には、もう歩けない道を下る計画が、何年も同じ名前で入れられていることがある。

北都県柳瀬市の鳴沢岳では、登山口に金属の箱が置かれている。登る人は、名前と人数、歩く道、下山の予定、緊急連絡先を用紙に書いて箱へ入れる。山で帰ってこない人が出たとき、どこを歩くつもりだったかを調べる手掛かりにするためだ。箱の紙は、地元の山岳会が週に一度回収している。近年は県の窓口へインターネットで届を出す人も増え、山岳会はその一覧も週に一度確かめている。

2021年7月15日に回収された届に、閉鎖された北の尾根を下る計画が書かれていた。登山予定日は7月17日。回収した日の2日後だった。

回収した会員は、用紙の上に印刷された「鳴沢村」という名ですぐに気づいた。村は2005年に柳瀬市と合併している。いま登山口で配っている用紙に、その名はない。

私は翌16日、山岳会で用紙を見せてもらった。村名は古いが、紙は白く、日付は今年になっていた。下の写真は、個人の住所や連絡先が写らないよう、上部だけを撮ったものだ。

霧島秀一撮影。木の机に置かれた白い用紙の上部に、登山届と鳴沢村の印字がある。右側には2021.7.17と手書きされている。氏名や電話番号の欄は画面に入っていない。
霧島秀一撮影。2021年7月16日、山岳会で見せてもらった今年の登山届。合併前の村名が印刷された様式に、今年の登山予定日が書き込まれている。

リーダーは大谷直茂、参加者は本人を含めて3人。山頂から北の尾根へ下り、避難小屋を通って戻る道順だった。北の尾根は1996年の大雨で崩れ、その年に閉鎖された。小屋も取り壊され、今の案内図では歩ける道として示されていない。同じ週のインターネットの届に、北の尾根を通る計画は1件もなかった。インターネットの届は、出した人の電話番号やメールアドレスが残る。紙の届には、箱へ入れたのが誰なのかを確かめる手段がない。

この道順と3人の名前が書かれた届は、2019年の7月から毎年1枚ずつ箱に入っていた。回収した会員が古い書類を調べると、1996年7月の束にも同じ3人の届があった。道が崩れる前の登山だ。

新しく入る用紙は、古い届の道順と名前を写したようによく似ている。ただ、登山の日付は、どれも届が見つかった年になっている。古い紙が束から抜け落ちて、回収箱へ紛れたのではない。

合併の前に刷った用紙の残りを、誰かが使った可能性はある。山岳会の会員によると、村の用紙は2004年まで登山口に置かれ、余りの束がしばらく旧村役場の建物に残っていたという。1996年の原本は黄ばんでいるが、今年の紙は白い。しまい方によって紙の色は変わるので、色だけで新しく刷った紙かどうかは決められない。

山岳会は2019年に、届に書かれた番号へ電話をかけていた。つながらず、古い名簿の住所にも大谷さんはいなかった。閉鎖道の入口を見回り、遭難の知らせにも気を配ったが、届にあたる3人組は見つからなかった。

今年は元会員をたどり、ようやく本人と連絡がついた。大谷直茂さんは80歳で、10年ほど前に山登りをやめていた。1996年に会社の仲間2人と北の尾根を下ったことは覚えていた。北の尾根を歩いたのはその一度だけで、3人とも帰ったと話している。今年の届は出していないという。

私も山岳会の紹介で大谷さんに連絡を取った。直茂さんと昨年から同居している家族の大谷和宜さんを通じて、今年の届の写真を送った。まもなく直茂さんから電話がかかってきた。

「連絡先の欄も、昔と同じでしたか」

私は4枚の届を並べ直した。1996年の原本、2019年、2020年、そして今年の分である。道順と名前を比べることに気を取られ、緊急連絡先までは見比べていなかった。1996年から2020年までの3枚は、同じ固定電話の番号だった。今年の1枚だけ、違う番号が書かれていた。

それは和宜さんの携帯電話の番号だった。和宜さんの許可を得て、その番号にかけて確かめた。今使っている番号で、1996年にはまだ持っていなかった。登山届にその番号を書いてよいか、誰かに尋ねられたこともないという。

「直茂さんの昔の知り合いで、この番号を知っている人はいないと思います」

直茂さんは届の字を見て、自分の字に似ていると言った。それでも、今年は登るつもりもなく、用紙も書いていないという答えは変わらなかった。今年の届を書いた人が、なぜ今の連絡先を知っていたのかは分からない。

7月17日の土曜日、山岳会は登山口で聞き取りをし、閉鎖道の入口も見回った。見回りに出た会員の西原直之さん(58歳)は、北の尾根で3人の登山者を見たと報告した。私は翌18日、西原さんに話を聞いた。

西原さんが立っていたのは、閉鎖を知らせる柵の手前だった。そこからは、先で折れ曲がる尾根道を横から見通せる。大雨で土が落ちた所では道が途切れ、向こう側に細い道の端が残っている。

「先頭の人は、切れ目で足を止めませんでした。土のない所へ踏み出して、向こうの道と同じ高さのまま歩いていったんです。こちらから靴の底が見えて、その下に斜面の木がありました」

続く2人も、先頭と同じ所へ足を置いて渡った。ロープにつかまったり、崖に体を寄せたりする様子はなかったという。

西原さんは道が崩れていると叫んだが、3人は振り返らず、尾根の陰へ進んだ。柵を越えて追うことはせず、ほかの会員と警察へ連絡した。西原さんが書いた当日のメモには、3人の服装と進んだ方向がある。顔は見えておらず、届にある人たちなのかは分からない。その日の夕方まで、山で人がいなくなったという知らせは入らなかった。

和宜さんは、その日、直茂さんは自宅にいたと話している。西原さんの話を伝えると、直茂さんは、もう歩けない所だと思っていたと答えた。

一緒に名前を書かれた2人のうち、1人とは直茂さんが年賀状のやり取りを続けていた。その人も、今年は鳴沢岳へ行っていないと答えた。残る1人とは長く連絡が途絶えていて、今どこにいるのか確かめられていない。

1996年の下山のことを尋ねると、直茂さんは少し考えてから話した。

「小屋で休んだあと、私が先に下りて、車を取りに行きました。2人は後から来たと思います。3人で車に乗って帰った覚えはあるんですが、駐車場で誰が最後に来たのかまでは、もう思い出せません」

直茂さんは、1996年の下山届の写しも欲しいと言った。下山届は、登山を終えた人が無事に戻ったことを山岳会へ知らせる紙だ。古い束には、直茂さんが3人分をまとめて届けた1枚が残っていた。

「これも私が書いたんですね」

写しを受け取った直茂さんは、リーダーだった自分がまとめて出したことを思い出した。ほかの2人が、それぞれ署名した紙ではない。直茂さんの連絡を受けて、山岳会は3人とも帰ったものと扱っていた。下山届が1枚あれば、それ以上は確かめないのが当時の決まりだった。

私はそれまで、3人とも帰ったことは確かだと考えていた。直茂さんの話も、山岳会の記録もそうなっていたからだ。ただ、その記録は、直茂さんが書いた1枚の紙だけに基づいていた。

直茂さんは、今年の分も自分が下山届を書けばよいのかと尋ねた。話の途中で「登っていないのに、下りたとは書けませんね」と言い直した。

和宜さんは携帯の番号を変えることも考えたが、直茂さんは、しばらくそのままにしてほしいと頼んだ。

「あれを本当の計画だと思って探しに行く人がいたら、こちらへ連絡できなくなるでしょう」

7月20日、私はもう一度山岳会を訪ねた。会員は今年の届を昔の書類の束へは戻さず、透明な袋に入れて、回収した届を並べる棚のいちばん手前に立てた。袋の表には、回収した日付と、和宜さんの電話番号だけが書いてある。

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