地方の古い団地では、建物の間に植えた木が、住む人の目印や季節の楽しみになっていることがある。木が大きくなると、根が水道管を傷めたり、枝が窓をふさいだりして、切られることもある。
「そこまで来れば、分かります」
2022年9月10日18時、北都県のK団地の中庭で、ベンチに座った女性、杉本敏子さん(82歳)に呼ばれた。そばには、ひざほどの高さの切り株がある。近づくと甘い花の香りがした。辺りの植え込みを見ても、花の付いた木はない。切り株からも芽は出ていなかった。
4号棟と5号棟の間にあったキンモクセイだと、杉本さんは教えてくれた。根が水道管を傷めるため、2016年に切られたという。私が香りの出所を探して歩き出すと、杉本さんは、離れすぎると分からなくなると言った。数歩進むと、確かに香りを感じなくなった。
杉本さんは4号棟の1階に住んでいる。木があったころから、花の季節には夕方のベンチで休んでいた。切られた後も、その習慣が続いている。
今年、杉本さんが香りに気付いたのは9月5日の夕方だった。例年、町のほかのキンモクセイが咲くより早く始まり、1週間ほどで消えるという。町の木が咲くのは、たいてい9月の終わりから10月の初めである。管理事務所で見せてもらった2017年10月の自治会報にも、木を切った後に香りがしたという住人の投書が載っていた。
投書は、そのとき何を感じたかを書いたものだった。切り株から香りが出ていたと確かめた資料ではない。私も初めは、以前の木を覚えている人が、別の場所から来た香りを懐かしんでいるのだろうと考えた。
管理人の石原喜久夫さん(63歳)は今年、ベンチの下や植え込み、切り株の割れ目まで、芳香剤などが置かれていないか調べていた。何も見つからなかったという。近くの部屋や洗濯物から来ているのかもしれない、と言っていた。団地の周り500メートルほどには、キンモクセイの植わった家が3軒あるが、どれもまだつぼみだった。
杉本さんと中庭を歩くと、切り株から約3メートル離れた辺りで、急に香りが分からなくなる所があった。少しずつ薄くなる感じではなかった。風下側へ歩いても、香りを追って遠くまで行くことはできない。
石原さんは今年、木の話を知らない清掃員2人にも、中庭を別々に歩いてもらった。「気になるにおいはありませんか」とだけ尋ねたという。2人とも切り株の近くで、花のような甘いにおいがすると答えた。
石原さんは、通路の舗装の継ぎ目を目印に、2人が香りに気付いた位置を控えていた。杉本さんと私が香りを感じた範囲に収まっていた。キンモクセイの名を先に伝えなくても、香りを感じる位置は重なっていた。ただし、においの成分を調べたわけではない。
石原さんは、香りのする空気を外へ持ち出せないかと言った。発生源が分からなくても、袋に入れれば、別の場所で確かめられるのではないか。
9月10日、まず大きな袋を使った。空の袋自体ににおいがないことを確かめ、切り株のそばで口を開き、空気を入れて閉じた。私も横に立ち、その場所では甘い香りがすることを確かめた。
袋を中庭の入口まで運び、口を少し開けても、私には香りが分からなかった。石原さんにも分からないという。袋の中で香りが弱まったのかもしれず、この方法では判断できなかった。
次に、石原さんが用意した長い筒と小型の送風機を使った。送風機で切り株のそばの空気を吸い、筒を通して、香りのしない所まで送る。出口に紙を当てると、風で動いた。空気は届いていたが、そこへ顔を寄せても花のにおいはしなかった。
筒の中を通る間に香りが弱くなったのではないかと、私は言った。石原さんは筒をつなぎ直さず、一式を移動させた。今度は送風機を香りのしない所へ出し、筒の出口を切り株のそばに置いた。外側の空気を、香りのする範囲へ送る配置である。
その出口では、甘い香りがした。私は送風機の吸い込み口へ戻ったが、そこでは分からない。石原さんと紙の動きを確かめ直しても、風は外側から切り株の方へ流れていた。
出口で周囲の香りが混ざった可能性はある。それでも、切り株の近くで吸った空気を外へ送ったときには、においを感じられなかった。どこの空気を運ぶかより、どこに顔を置いて嗅ぐかで、結果が分かれていた。
以下は、この日に使った器具を、片付ける前にベンチで撮影したものである。

香りのする範囲が、空気ではなく場所で決まっているのなら、その場所には何があったのか。私は石原さんに、木を切る前の記録が残っていないかを尋ねた。
管理事務所の棚に、植え込みの台帳と、2015年に業者が出した剪定の見積もりがあった。見積もりには、木の大きさが書いてある。「キンモクセイ 樹高5.5メートル 枝張り直径6メートル」。2016年の工事の記録には、幹を切り、根は水道管の近くの分だけを掘り出して、切り株は残したとある。
枝張りは、枝が横へ広がった幅のことである。直径6メートルなら、幹から3メートルの所まで枝が届いていた。切り株から約3メートルで香りが急に分からなくなる位置は、切る前の木の枝先の位置と重なる。香りは、もう立っていない木の、枝の下の空間にだけ残っていた。
台帳の古い頁には、植えた日も書いてあった。「キンモクセイ 1本 昭和51年9月5日 4号棟 杉本義明氏寄贈」。
杉本さんの夫である。私は台帳の写しを持ってベンチへ戻った。杉本さんは字を見て、しばらく黙っていた。
「団地ができて、最初の秋に、主人が苗木を買ってきたんです。部屋の前に花の木がないのは寂しいと言って。植えた日のことは、忘れていました」
義明さんは2015年に亡くなった。翌年、水道管の工事のために木を切る話が出たとき、杉本さんは反対しなかったという。夫のいない部屋の前で、毎年花を見るのがつらかったからだと話した。
今年、香りに気付いたのは9月5日の夕方だった。植えた日と同じである。2017年の自治会報の投書にも、香りは9月の初めからと書いてあった。町のキンモクセイが咲くより、ひと月近く早い。
ただ、香りが始まる日を毎年記録していた人はいない。杉本さんも、今年が9月5日だったと覚えているだけで、ほかの年の日付は分からないという。植えた日と香りの始まりが重なることは、今年1年分の一致でしかない。
作業の合間も、杉本さんはベンチに座っていた。香りを外へ送れれば、部屋でも楽しめるかもしれない。私がそう言うと、「ここへ来ればいいんです」と答えた。
ベンチは、木の幹から2メートルほどの所に置かれている。枝張りの内側で、花の季節には枝の下になる場所だった。義明さんが木を植えた翌年、自分で作って置いたベンチだという。
9月12日の夕方、杉本さんから香りが消えたと連絡があった。石原さんも同じ筒と送風機で試したが、切り株の近くでも、中庭の入口でも、もう感じられなかったという。私が調べられたのは、杉本さんが言う約1週間のうちの一晩だけだった。
石原さんは、見積もりと台帳の写しを、自治会報の投書と同じ綴りに挟んだ。来年の9月の初めには、香りに気付いた日を、住人に知らせてもらうよう掲示を出すつもりだという。
10日の確認を終えて送風機を片付けると、杉本さんはベンチの空いた場所へ座り直した。花の付いた枝はもうないが、ここなら今年もキンモクセイを楽しめるのだという。杉本さんは座ったまま、少し上を見上げた。枝のあったあたりには、夕方の空しかなかった。



