町の小さな劇の集まりでは、仲間が書いた短い台本を、同じ相手と何十回も読み合わせることがある。慣れてくると、相手が言う前に次の台詞が口の中に浮かぶようになるという。それでも声は、それぞれの口から出るものだ。
鹿間千映さん(41歳)が私の質問に答えようとすると、向かいに座る友人の角井佳澄さん(45歳)の口が動いた。聞こえたのは角井さんの声だった。鹿間さんの唇も動いていたが、そちらからは声がしなかった。
2人は北都県柳瀬市内の劇の集まりに参加している。2023年3月19日の日曜日、角井さんの家で台詞を読み合わせていたときに、この状態に気づいたという。鹿間さんから23日にメールで相談があり、私は25日、同じ部屋で話を聞いた。
角井さんは、自分の言葉で話すこともできた。鹿間さんが黙っている間に、茶をどちらへ置くか私に尋ねた。鹿間さんが話し始めると、角井さんの口から別の文が出た。私は2人分の話を、角井さんの声で聞くことになった。
2人は5年ほど前にこの集まりで知り合い、それからは稽古の後も、よく茶を飲んで話していた。劇とは関係のない話の方が長くなることもあったそうだ。
19日の読み合わせでは、鹿間さんが客、角井さんが店番の役だった。集まりの仲間が書いた短い劇で、客が注文を告げ、店番が品物を取りに行く。まだ立って動く稽古には入らず、台本を机に置いて言葉のやり取りを確かめていた。
鹿間さんは、客の台詞の最後で何度かつかえていた。角井さんが手本のつもりでその1行を先に読み、続けて鹿間さんが読み直した。そのとき、角井さんの口がもう一度、同じ台詞を言ったという。
鹿間さんは初め、角井さんが一緒に読んでくれたのだと思った。「今度は1人で言ってみる」と伝えようとすると、その言葉も角井さんの口から出た。角井さんは台本を閉じ、鹿間さんに、いったん話すのをやめてほしいと言った。
25日の取材で、角井さんは自分の口元を指した。
「私がしゃべっている感じはあるんです。舌も顎も動くので。でも、次に何を言うかは分からないんです」
鹿間さんは、話そうとすると自分の口も動くが、自分の声は聞こえず、言おうとした文を角井さんの声で聞くのだと、ノートに書いて説明した。
19日の読み合わせはその場でやめた。20日には2人で病院へ行き、起きていることを説明したという。喉と耳を診てもらい、鹿間さんの声帯にも、角井さんの耳にも、目立った異常はないと言われた。医師の前でも、鹿間さんが話そうとすると角井さんの口から言葉が出た。受診後も状態は変わらず、改めて診察を受ける予定だと話していた。私は診察には立ち会っていない。
鹿間さんは携帯電話に文字を打ち、買い物では店の人に画面を見せ、家族にはメッセージを送っている。市内の事務所で電話の受付をしている仕事は、20日から休んでいる。電話で話せば、その声が離れた角井さんの口から出るかもしれないからだ。角井さんともノートでやり取りしていた。その間、角井さんが自分の意思と違う文を話すことはなかったという。
鹿間さんは、帰宅後に声が出るか試していないと書いていた。角井さんが食事や電話をしているかもしれず、離れた所でも口が動くなら困るからだという。角井さんの方も、19日の夜は家族と夕食をとったが、自分の意思と違う言葉が口から出たことはないと話した。鹿間さんはその夜、誰とも話さずに過ごしていた。
鹿間さんは、そのノートを25日の取材に持参していた。ここまでの経過は、角井さんが話した部分と、鹿間さんが書いた部分を、2人に確かめながら聞いた。
話の途中、私の言い間違いに鹿間さんが笑った。その笑い声は、鹿間さん自身の口から聞こえた。角井さんは黙ったまま、それを見ていた。咳払いや相づちの「ん」も、鹿間さんの方から出るという。角井さんの口へ移るのは、言葉として話そうとしたものだけらしかった。
私が最初に疑ったのは、角井さんが鹿間さんの言いたいことを察し、代わりに話しているという説明だった。悪意がなくても、親しい2人ならありうる。長く一緒に稽古をしていれば、相手の言い回しや考え方も分かる。それに、声の出どころは、思うほど確かには聞き分けられない。腹話術のように口を動かさずに話せば、近くの別の人が話しているように聞こえることもある。
私は、角井さんが知らない文でも同じことが起きるのか、確かめてよいか尋ねた。角井さんは短い文なら構わないと答え、鹿間さんもうなずいた。
角井さんは椅子を横へ向け、窓を見た。私は手帳に「緑の封筒を2つ」と書き、鹿間さんにだけ見せた。鹿間さんに黙って読んでもらってから手帳を閉じ、その文を、今度は声に出すつもりで言ってもらった。
鹿間さんの唇が動いた。同時に、横を向いた角井さんの口が開いた。
「緑の封筒を2つ」
角井さんの声がした。最初に茶の場所を尋ねられたときと同じ声だった。私は角井さんの横顔を見ており、文に合わせて唇と顎が動くのも見た。鹿間さんは机の反対側に座っていた。鹿間さんの方から、その文は聞こえなかった。
角井さんは私へ向き直り、何と書いてあったのか手帳を見たいと言った。このとき鹿間さんの口は閉じていた。手帳を開くと、角井さんは文を指し、自分は封筒の話をするつもりはなかったと話した。劇の台本にも、2人の普段の話にも、緑の封筒は出てこない。角井さんが察して言える文ではなかった。
私はそこで確認を終えた。読み合わせで同じ台詞を言ったことがきっかけだったのか、もっと前から何か変わっていたのかは分からない。2人が初めて気づいたのが19日の稽古だった。
机には台本が2冊置かれていた。鹿間さんの冊子には客の台詞、角井さんの冊子には店番の台詞の脇に鉛筆で線が引かれている。私は2人の了承を得て、取材をした部屋と、机の上の台本を撮影した。

撮影の後、角井さんは自分の冊子を開いて見せてくれた。店番の台詞の脇の線とは別に、客の台詞の何行かにも、ごく薄い鉛筆の印があった。鹿間さんがつかえやすい行だという。稽古のたびに、角井さんはその行を口の中で一緒に言い、鹿間さんが詰まればすぐ続きを出せるようにしていた。
「助けるつもりで、千映さんの台詞まで覚えていたんです。19日に声に出して読んだのは、その一つでした」
印はどれも、19日より前の稽古で付けたものだ。鉛筆の色が薄いのは、鹿間さんに見られて気を悪くされないよう、あとで消すつもりだったからだという。何が2人の声をつないだのかは分からない。ただ、2人の声がつながる前から、角井さんの口は、鹿間さんの台詞をいつでも言えるように準備していた。
2人は、この週の稽古を休んでいた。角井さんがほかの参加者へ事情を伝え、代わりの人に読んでもらうことになったという。鹿間さんはノートに、劇をやめたいわけではないと書いた。角井さんも、自分まで休むことになるとは思っていなかったと話した。
取材を終え、私が手帳を鞄へしまっていると、角井さんは鹿間さんへ向き直った。
「来週は、読み合わせを休んで、それとは別に」
そこまで言ったとき、鹿間さんの唇が動いた。角井さんの口から「分かった」が出た。角井さんは口元に指を当てた。
「まだ、続きがあります」
鹿間さんの唇がもう一度動いた。角井さんの口から、小さく「ごめん」が出た。
角井さんは口元の指を離し、鹿間さんを見た。
「今は、返事をしないで」



