地方の庭先の鳩小屋には、鳩が出払っている間でも、動かしてはいけない巣箱が存在することがある。
鳩を放して飼う家では、朝に小屋の出口を開け、鳩が外を飛んでいる間に床を掃除する。しばらくすると、遠くまで飛んだ鳩も屋根へ戻り、入口から小屋へ入る。鳩は小屋の場所と、自分が休む巣箱を覚えている。帰ってくるから放せる。そのため、小屋を移すときは新しい場所に少しずつ慣らすのが普通だ。
北都県柳瀬市の郊外に住む梶嶋康平さん(58歳)は、自宅の庭で3羽の鳩を飼っている。鳩を飼い始めたのは5年前で、近所の愛好家から譲られた。鳩が小屋の周りを飛ぶところを見るのが好きだという。古い小屋は床が傷んできていた。隣に新しい区画を作り、2つの間を行き来できるようにして、鳩を慣らす予定だった。木の巣箱は、横長の箱を仕切り板で3つの部屋に分けた物で、それぞれ正面が開いている。卵もひなもなく、3羽は夜になると1羽ずつそこへ入って休む。雨の日や寒い日には、昼でも部屋に入ってじっとしているという。
2023年6月4日、日曜日。梶嶋さんは、3羽が外へ出た後で、この巣箱を新しい区画へ移すことにした。空になってから外せば、鳩を追い立てずに済むと考えたからだ。運ぶのを手伝った知人の戸根節雄さん(61歳)から、昼過ぎに私へ連絡があった。
「鳩が入っていないのを、2人で見てから持ったんです」
経過は、電話で戸根さんから聞いた話を、現場で梶嶋さんにも確かめた。その朝も、3羽は自分で小屋から出た。ひと回り飛び、小屋の外の低いブロック塀に並んだ。塀の端は物置の壁につながっている。2人は巣箱の中と裏に鳩がいないことを確かめ、壁に留めてあった留め具を外して、箱の両端を持った。
梶嶋さんが先に戸口を出る向きで、戸根さんは小屋の中に残って運んだ。箱を腰の高さまで持ち上げたとき、戸根さんの正面に、塀の上の鳩が見えていた。
3羽とも、足が塀から離れた。飛び立つときのように体を前へ傾けず、翼も閉じたままだった。脚は下を向き、足先と塀の上との間に空が見えた。箱を持つ手を止めると、鳩もその高さにとどまった。
「箱の重さは変わりませんでした。持っている手には、空の箱の重さしかなかったんです」と戸根さんは言う。自分の目を疑ったのは、その後だった。
「塀だけ下がったのかと思いました。でも、塀も物置も動いていませんでした」
戸根さんは、梶嶋さんに止まるよう声を掛けた。梶嶋さんは戸口の柱をよけるため、箱を持ったまま物置の方へ1歩動いた。鳩の胸は庭へ向いたままで、3羽とも同じ向きへ滑った。
その途中で2羽が翼を広げた。残る1羽は、体の横を物置の壁に当て、塀の外側へ落ちた。翼の先に白い羽がある鳩だった。3羽の中でいちばん古く、梶嶋さんが最初に譲られた鳩である。梶嶋さんはぶつかる音を聞き、箱を止めた。戸根さんは「置いて」と言い、2人で巣箱をすぐ前の台へ下ろした。翼を広げた2羽は、物置を越えて隣の畑の方へ飛んでいった。
私が着いたとき、戸根さんは、梶嶋さんが拾った白い羽の鳩をかごへ入れ、鳥を診てもらえる動物病院へ車で連れていくところだった。梶嶋さんは、受診が済んだら電話してほしいと頼んだ。
私はまず、ほかに説明がつかないかを確かめた。3羽がいた塀と小屋の戸口の間には庭があり、糸や網でつながってはいない。塀は戸口から5メートルほど先にある。梶嶋さんは、鳩に足輪のほか何も付けていないと話した。鳩が驚いて跳び上がったのなら、翼を開くはずだ。戸根さんは、3羽が上がるとき、羽ばたきの音はしなかったと言う。
見間違いも考えた。梶嶋さんは箱を持ち上げたとき、足元と戸口を見ていて、3羽が浮き始めるところは見ていない。ただ、戸根さんの声で外を向いた後、翼を閉じた鳩が自分と同じ向きへ動き、1羽が壁に当たるところを見ている。2人が見た範囲は違うが、どちらも、鳩の動きが箱の動きと重なっていたと話した。
巣箱を動かした幅や、鳩が移った距離は測っていない。私も運搬には立ち会っておらず、映像も残っていなかった。
台に載った巣箱を見せてもらった。正面からは、3つの部屋の奥まで見通せる。底板には細かな傷があり、仕切りの端が白く擦れていた。部屋ごとに擦れ方が少し違う。
「寝る部屋は、それぞれ決まっているんです」
梶嶋さんによると、白い羽の鳩はいつも物置側の端の部屋に入る。ほかの2羽も、真ん中と反対の端から動かない。外で塀に並ぶときも、物置側から、白い羽の鳩、真ん中の部屋の鳩、反対の端の鳩の順になる。梶嶋さんは以前から、それをおかしいとは思っていなかった。小屋から出る順番のまま並ぶのだろう、と考えていたという。
梶嶋さんのスマートフォンには、塀に並んだ3羽の写真が去年から何枚も残っていた。私が見せてもらった7枚では、どれも物置側から同じ順に並んでいた。巣箱の仕切りの間を測ると、1部屋の幅は約30センチある。写真の塀のブロックの目地と比べると、鳩どうしの間隔もおよそ30センチだった。
私は、朝に塀に並んだ順を尋ねた。戸根さんは、物置寄りにいたのが白い羽の鳩だったと覚えていた。物置側の端の部屋で寝る鳩が、塀でもいちばん物置寄りにいた。箱が物置の方へ動けば、その鳩が最初に壁へ届く。
塀に並んだ3羽は、巣箱の3つの部屋と同じ順で、同じ間隔に並んでいた。箱が持ち上がると上がり、横へ動くと同じ向きへ滑った。梶嶋さんが箱を「空」だと確かめたとき、3羽はその部屋から離れていたわけではなかったのかもしれない。
後で梶嶋さんから聞いた話では、その夕方、戸根さんから電話があった。白い羽の鳩は翼の付け根を打っていたが、骨は折れていなかった。しばらく別のかごで休ませるよう言われたという。梶嶋さんは、小屋の奥に小さなかごを用意した。
その日の移設はやめることになった。梶嶋さんは、新しい区画ができる前と同じように、古い小屋で世話を続けると言った。ただ、いったん台に載せた巣箱を、どこまでなら動かしてよいかは分からない。
「譲ってくれた人からは、巣箱はなるべく動かすなと言われていました。鳩が迷うからだと思っていたんです」
梶嶋さんは、箱を雨にさらさず、誰も触れずに済むよう、台の周りへ覆いを作るつもりだった。物干し竿を2本立て、ブルーシートを掛けるという。
「空だから動かしていいと思ったんです。今朝は」
やがて2羽が畑の方から戻ってきた。庭を横切り、小屋の屋根へ下りた。梶嶋さんが巣箱の前を離れずに餌の缶を振ると、1羽が古い入口の前へ来て、もう1羽も続いた。鳩は開いている入口から小屋の中へ入っていった。梶嶋さんが戸口まで見に行くと、2羽は、箱がなくなった壁の前に下りていた。
梶嶋さんはそこへ餌の皿を置いた。2羽が床の餌をついばみ始めると、私は梶嶋さんに断って、戸口からその様子を撮った。

撮り終えると、梶嶋さんは、しばらく箱の横に立っていてもらえないかと私に頼んだ。動かす人が来たら止めてほしいという。私は台の脇へ戻った。梶嶋さんは、鳩が食べるところを少し見てから、外へ出て私と代わった。巣箱は、正面を庭へ向けて台に載っている。私が台の脇にいた間、塀に止まる鳩はいなかった。
梶嶋さんは台の前へ椅子を運び、巣箱へ背を向けないように座った。そこからは、小屋の中までは見えなかった。餌を食べ終えた2羽がどこへ上がるのかを、梶嶋さんは見に行かなかった。



