近所の人が集まる小さな手芸の会では、先生がしばらく休むと言えば、それで休みになる。会費も規約もなく、決まりは先生の口から出る言葉だけで動いていることが多い。
北都県南條市の川良多枝さん(70歳)は、自宅に近所の人を招いて編み物を教えている。始めたのは5年ほど前で、月に2度、日曜の午後に4人が集まる。それぞれが編みたい物を持ってきて、分からない所を川良さんに尋ねる。机の端には「質問帳」と書いた大学ノートが置いてあり、その日に聞けなかったことを書いておくと、川良さんが次の回までに答えを書き込む。
川良さんは自分の編みかけも出していたが、誰かの手元を見ているうちに時間が過ぎることが多かった。今年は夏用のカーディガンを自分用に編んでいた。背中の分はできており、前側の編み地を作り始めたところで止まっている。この夏はしばらく集まりを休み、家で続きを編むつもりだった。
2024年6月2日、日曜日。4人が道具を片付け始めたとき、川良さんは休みの話をした。会に通う瀬丸尚子さん(58歳)によれば、「今月はお休みにします」という文に「次の回も持ってきてください」が重なった。誰かが先生と同時に話したのかと思って見回したが、ほかの3人も口を閉じて川良さんを見ていたという。
川良さんは「次の回はしません」と言い直そうとした。その間にも、同じ声で「分からない所は見ますから」と聞こえた。2つの文が交互に出たのではなく、初めの文を言い終える前から、別の文が重なって続いたと瀬丸さんは話した。川良さん自身も、言おうと思っていないことが、自分の声で一緒に聞こえたという。
その場では話すのをやめ、ノートに、次の集まりから休むことと、再開の日は決めていないことを書いた。4人に読んでもらい、その日の夕方には同じ内容を携帯電話から送った。休むという連絡は皆に伝わっている。次の回も教えてもらえると思って帰った人はいなかった。川良さんは翌3日、耳鼻咽喉科を受診したが、喉にも耳にも異常は見つからず、別の日にもう一度診てもらうことになった。私は診察には立ち会っていない。
瀬丸さんから連絡を受け、私は6月8日、土曜日に川良さんの自宅を訪ねた。取材には川良さんも同意し、瀬丸さんが同席した。取材の前に川良さんに断り、集まりに使っている部屋を撮影した。棚には糸や布の袋があり、椅子の1つには川良さんの編みかけが置かれていた。
机を囲んで座ると、川良さんが「今日は、話を聞いてもらうだけで」と言い始めた。その途中、同じ口元から「分からないところを出してください」という声が聞こえた。初めの文も途切れず、終わりの「結構です」と「ください」が重なった。
川良さんは口を閉じ、机のノートへ書いた。
「今日は話を聞いてもらうだけで結構です、と言いました。もう一方は言うつもりがありませんでした」
私はまず、ほかから声が出ている可能性を確かめた。部屋にいたのは私を含む3人だけで、瀬丸さんは両手を膝に置き、唇を閉じていた。机の上に音を出す機器はない。私は録音機を机に置き、川良さんの横へ椅子を移してよいか尋ねた。うなずいてもらい、机の角を挟んで隣に座った。川良さんの顔までは、腕を伸ばせば届くくらいだった。
口や喉がどう感じられるか尋ねると、川良さんは「口は、自分で動かしています」と答えた。「自分で」の辺りから、「糸はお好きな色で結構ですよ」という声が重なった。高い声と低い声に分かれているのでも、部屋の向こうから返ってくるのでもない。すぐそばで、川良さんの声による別々の言葉が同時に聞こえた。唇が閉じると、2つとも止まった。後で録音を聞き返すと、2つの文は重なったまま入っていた。
私が言う文をそのまま繰り返してもらうと、「今日は晴れています」には何も重ならなかった。ノートに書いた文にも、もう一つの文は混じらない。携帯電話で送った休みの連絡も、川良さんが打ったとおりの文だった。
瀬丸さんが、教えたくないという話だとは受け取っていないので、無理に説明しなくてよいと言った。川良さんは瀬丸さんへ顔を向けた。
「皆さんと編むのは好きなんです。でも、自分の」
そこまで話す間に、同じ口元から「何度でも聞いてください」という声が続いた。もう一方の声が「時間は」と続けたところで、川良さんは口を閉じた。2つの声がともに止まり、川良さんはノートを取った。
「自分の物も、最後まで編みたいんです」
瀬丸さんがうなずくと、川良さんはもう1行書き加えた。
「何度でも聞いてください、という方は私の返事にしないでください」
私は了承した。瀬丸さんも、再開を頼みに来たのではない、と言った。
重なる方の声が言う文に、私は聞き覚えがあるような気がしていた。瀬丸さんに頼み、机の端の質問帳を見せてもらった。5年分で4冊になり、4冊とも表紙の端が手ずれで丸くなっていた。会員の質問の下に、川良さんの字で答えが書いてある。どの答えの最後にも、似た一文が添えてあった。
「分からない所は見ますから」「何度でも聞いてください」「糸はお好きな色で結構ですよ」
瀬丸さんと数えると、「何度でも聞いてください」だけで40回を超えていた。2日と8日に重なった声の文は、どれも質問帳の中に、川良さん自身の字で書いてあった。
瀬丸さんによると、川良さんはこの5年、会を一度も休んでいない。2021年の夏にも休むと言ったことがあったが、会員から質問帳が回ってくると、その週のうちに答えを書き込んで返してしまったという。会員が休んだ回にも、質問帳だけは回っていた。
重なる方の声は、川良さんが言うつもりのないことを話している。だが、それは知らない誰かの言葉ではない。5年間、川良さんが会の人へ繰り返し書き、言ってきた先生の言葉だった。川良さんが自分の用事を口にするたびに、その上へ重なってくる。
川良さんはノートを開いたまま置き、隣の椅子から編みかけを取った。茶色の布袋には薄い緑の糸と、背中に当たる大きな編み地、小さい編み地が入っていた。川良さんは大きい方を机へ広げ、小さい方をその隣へ並べた。止まっているのはこの続きだと、指で示した。本人の了承を得て、私は机の上の編みかけを撮った。

瀬丸さんは大きな編み地の端に触れ、できたら着て見せてほしいと話した。川良さんはうなずいた。瀬丸さんが、前に付けるボタンはもう選んであるのかと尋ねると、川良さんは首を振った。
「あなたなら、どんな色のボタンを」
川良さんがそう話す声に、「合いそうなものを選んでおきます」が重なった。「どんな色の」と尋ねる声が続いている間にも、「選んでおきます」という声が同じ口元から聞こえていた。
川良さんは口を閉じた。瀬丸さんは川良さんの顔を見た後、机に広げられた編み地を見た。
川良さんはノートへ「私の服に、どんな色が合うか聞きたかったんです」と書いた。瀬丸さんは読み終えると、大きな編み地を川良さんの胸へ当てて見せてほしいと言った。
川良さんは立ち上がり、編み地の両端を肩へ当てた。瀬丸さんは椅子を少し後ろへ引いた。川良さんの顔と薄い緑の糸を見比べ、白より茶色がよさそうだと言った。
川良さんは顔を下げて編み地を見た。顔を上げると唇が少し開いたが、何も言わずに閉じた。ノートへ続きを書くために、肩に当てていた編み地を机へ下ろした。瀬丸さんも椅子を机へ戻し、川良さんが続きを書くのを待った。



