南條市の旧友宅の昔の食堂の写真に関する奇妙な記録

木の卓に3つの湯飲みと伏せた手鏡があり、奥の椅子に紺のコートが掛かっている。霧島秀一撮影。

地方では、閉じた店の思い出を、昔の客同士が家に集まって話すことがある。古い写真を出し合い、どの席に座っていたか、誰が何を頼んでいたかを確かめる。話しているうちに若い頃の顔つきになる、と言う人はいる。実際に顔が若くなる人はいない。

旧友の家で昔の食堂の話をしていた男性の手から、しわが消えた。白かった髪も、毛先まで黒くなった。北都県南條市の瀬萩敏和さん(68歳)の家で、2025年1月27日の午後、私はそれを見た。男性は、瀬萩さんの中学校からの友人の久保江郁夫さん(68歳)だった。

私は、2人が若い頃に通った食堂の話を聞く約束で訪ねていた。店は昨年閉じており、瀬萩さんから、昔の店内の写真もあると聞いていた。郁夫さんは、同い年の妻、美緒さんの車で来ていた。美緒さんは近くの店へ買い物に行き、用事が済んだら迎えに来る予定だった。郁夫さんは紺のコートを椅子へ掛け、妻が来たら話の途中でも帰るから、と瀬萩さんに伝えていた。

私は郁夫さんの斜め向かいに座った。初めて会う人だった。短い髪は耳の上まで白く、目尻と口の両脇には深いしわがあった。店の席が狭かったという話で郁夫さんが笑うと、頬のしわがいっそう深くなった。

2人は、店の中華そばが学生のうちは1杯120円だったこと、店主の妻が勘定を暗算で済ませていたことを、代わる代わる話した。郁夫さんは、カウンターの席の数を指で数えようとして、途中で数え直した。瀬萩さんが、たしか8席だったと言うと、郁夫さんはうなずいた。

変化が始まったのは、瀬萩さんが店内の写真を取りに立とうとしたときだった。郁夫さんが湯飲みを置くと、手の甲に浮いていた血管が浅くなっていった。指の付け根に集まっていたしわも伸び、平らになった。郁夫さんは手を裏返して見てから、右手を向かいの瀬萩さんへ差し出し、「これ、見てくれ」と言った。瀬萩さんは椅子へ座り直しかけ、郁夫さんの顔を見て動きを止めた。

目尻のしわが、外側から短くなっていた。頬の下のくぼみも浅くなり、口の脇へ寄っていた皮膚が広がった。郁夫さんは笑っていなかった。唇を少し開けたまま、私と瀬萩さんを交互に見た。その間も、頬の輪郭は変わっていった。

白かった髪に黒い筋が交じった。耳のすぐ上だけでなく、横へ寝ていた毛先まで黒くなった。白い毛が抜けたり、新しい毛が伸びたりする様子はなかった。郁夫さんが左手を頭へ上げたときには、その指の周りに白い所が少し残るだけだった。

「どうなってる」

声は先ほどと変わらなかった。私は髪が黒くなっていると答え、痛い所や気分の悪さはないか聞いた。どちらもないと郁夫さんは答えた。瀬萩さんが頬を指すと、郁夫さんは左手を口の脇へ当てた。押した指の先で、頬の皮膚が少しへこんだ。指を離すと、先ほどの深いしわは現れなかった。そこから先、私が見ている間には変化がなかった。

瀬萩さんが洗面所から手鏡を持ってきた。郁夫さんは片手で持ち、顔へ近づけた。目尻へ触れ、それから鏡の下端を頬につけるほど寄せた。

「美緒に、先に言っておかないと」

郁夫さんは携帯電話を取り、妻に、自分の髪が黒くなり、顔も変わったと話した。説明の途中で瀬萩さんへ電話を渡したので、瀬萩さんも目の前で見た順に伝えた。郁夫さんは電話を返してもらい、「ここにいるから。慌てなくていいから」と言った。続けて、普段かかっている医院にも電話し、今から診てもらいに行くことになった。

妻を待つ間、私はこの出来事を記録してよいか尋ねた。郁夫さんは顔の写真を断り、手と部屋ならよいと答えた。私は瀬萩さんにも確かめて卓を撮り、それから郁夫さんが置いた右手を撮った。湯飲みの脇に手のひらを下にして置いてもらった。変わる途中の写真はない。

木の卓に伏せて置かれた成人男性の右手と、その脇の湯飲み。手の甲に深いしわは見えない。霧島秀一撮影。
霧島秀一撮影。2025年1月27日、瀬萩さん宅。変化が止まった後、湯飲みの脇に置かれた郁夫さんの右手。手の甲と指の付け根を撮影した。

撮影の後、瀬萩さんは奥の部屋から、取りに行きかけていた写真を持ってきた。食堂の店内を写した古い紙焼きで、カウンターの前に若い男女が並んで座っている。男の方は、黒い短い髪を額の上で分けていた。

「これ、郁夫だよ」

瀬萩さんは写真を卓へ置いた。私は写真の男と、目の前の郁夫さんを見比べた。目尻の形も、頬の輪郭も、今の郁夫さんとほとんど同じだった。隣に座る女性は、髪を後ろで1つに結んでいた。若い頃の美緒さんだという。

裏には、瀬萩さんの字で「昭和55年4月 久保江・美緒さん 婚約の日」とあった。撮ったのは瀬萩さんだった。2人はこの食堂のカウンターで知り合い、同じ席で、郁夫さんが結婚を申し込んだ。瀬萩さんはその日、たまたま隣の席にいて、店主に頼まれてカメラを向けたという。

写真の端には、壁に貼られた品書きも写っていた。中華そばの値段は120円だった。郁夫さんは写真を手に取らなかった。卓に置いたまま、少し離れて見ていた。今日の話は、本当はこの写真のことを聞くために来たのだと言った。

郁夫さんは去年の秋、医院で物忘れの検査を受けていた。結果はまだ軽いと言われたが、食堂の名前がすぐに出てこない日があった。美緒さんと知り合った日のことを、忘れる前に誰かと確かめておきたかった。瀬萩さんに写真があると聞いて、今日を頼んだのだという。美緒さんには、昔の店の話をしに行くとだけ伝えていた。

瀬萩さんは、写真を美緒さんにも見せるかと尋ねた。郁夫さんは少し考え、自分から見せると答えた。写真を封筒へ入れ、コートの内ポケットへ収めた。

美緒さんが来ると、瀬萩さんが玄関へ迎えに出た。美緒さんは部屋へ入ってすぐには近づかず、戸口から郁夫さんを見た。郁夫さんが、話していた所から、ずっとここにいたんだ、と言うと、美緒さんはうなずき、卓へ寄った。夫の頭に手を伸ばしかけ、手前で下ろした。

「朝は、いつもと同じだったのに」

美緒さんは、今朝も夫の髪を見たと話した。コートを着たときに襟の後ろで寝癖がはねていて、出掛ける前に手で押さえたという。美緒さんの髪には白いものが交じり、額にも目尻にもしわがあった。私は、顔も髪も変わったが、体まで若返ったのかは分からないと伝えた。美緒さんは、先に医院へ行こうと言い、車を家の前へ寄せるため外へ出た。

美緒さんが外へ出ている間、郁夫さんは瀬萩さんに、食堂の名前を言ってみせた。駅裏の「みどり食堂」。今日はすぐに出た、と郁夫さんは言った。カウンターの右から2番目が、自分たちの席だったことも覚えていた。瀬萩さんは、それで合っていると答えた。郁夫さんは手鏡を伏せたまま瀬萩さんへ返し、写真のことは、医院の帰りに車の中で美緒さんに見せると話した。

玄関で郁夫さんがコートの袖を通すと、右の襟が内側へ折れた。戻ってきた美緒さんが「そっち、折れてる」と言い、夫の前へ立った。郁夫さんは自分で触ろうとした手を下ろし、顎を少し上げた。

美緒さんは襟の端をつまんだ。手の甲にあるしわが、郁夫さんの頬のすぐ横に並んだ。襟を起こしかけたところで、その指が止まった。美緒さんは布を離し、開いた自分の手を見た。それから、顔に触ってもいいかと尋ねた。郁夫さんは、いつも何も聞かないだろう、と答えた。

美緒さんは夫の頬へ手を添えた。耳の下から顎へ指を滑らせ、口の脇に触れた。郁夫さんは妻を見ていたが、やがて目を下へ向けた。内ポケットの封筒の角が、コートの胸を少し押し上げていた。美緒さんは襟の端を外へ起こし、反対の襟も確かめてから、胸の前を手のひらでなでた。郁夫さんは、先に逸らそうとした目を、もう一度美緒さんへ戻した。