南條市の民家の台所の洗い桶に関する奇妙な記録

霧島秀一撮影。小さな台所のステンレス製の流しと、底に花柄がある白い洗い桶。流しの前に木製の椅子がある。

地方の家の台所では、皿を拭いている最中に手元へ火が移れば、すぐに水へ入れる。布巾をかぶせて火を押さえる人もいる。水に沈めた火は消え、布巾は焦げて終わる。水の中で燃え続ける火はない。

夕飯の支度をしていた女性の親指に火がつき、水へ沈めても消えなかった。北都県南條市の槙瀬多津子さん(仮名、76歳)の家で、2025年1月18日の夕方、私はそれを見た。地域の古い写真を見せてもらった際に借りた冊子を返すために訪ねていた。多津子さんの息子の昌彦さん(仮名、49歳)も来ていた。受診したことや自宅を広く知られたくないという2人の希望で、名前は仮名にした。

昌彦さんは市内の別の所に住んでいるが、母親と食事をするのは久しぶりだという。多津子さんが夕飯を食べていくよう勧めると、昌彦さんは冷蔵庫を開け、食卓へ出す漬物を探した。私は台所の入口で、冊子を入れてきた袋を畳んでいた。

多津子さんは流しの前に立ち、左手で持った小皿を右手の布巾で拭いていた。その左の親指の先で、黄色いものが揺れた。近くのコンロは、先月入れ替えたばかりの電気のもので、火の出る口はなかった。

「あ、火」

私が言うと、多津子さんは皿を流しへ落とした。左手を顔から遠ざけ、手首を振った。炎は爪の上に残り、振るたびに横へなびいた。指にはマッチも、ライターもなかった。

昌彦さんが母親の右手から布巾を取り、火のある指へかぶせた。布巾の端がオレンジ色に明るくなった。昌彦さんは短く声を上げ、布巾を流しへ落とした。つまんでいた右手を引っ込めたとき、人差し指の脇が赤くなっているのが見えた。布巾は流しに落ちても燃えていた。私が蛇口を開けて水をかけると、火が消え、黒く縮んだ縁が排水口の方へ動いた。

多津子さんは、流しの中にあった洗い桶へ左手を入れた。桶には食器を洗うための水が入っていた。手首まで沈めると、火も水面より下へ入った。それでも炎は消えなかった。水面から数センチ下に親指の爪が見え、その上で黄色い炎が細くなったり、先で二つに分かれたりしていた。桶の底の花柄が、その向こうに見えた。多津子さんが手をさらに下げると、炎も同じだけ下がった。

私は119番に電話をかけた。所在地を伝え、人の指から火が出ていること、布巾に燃え移ったことを話した。多津子さんは呼びかけに答えており、熱さも痛みも感じないと言った。その返事も伝えた。痛みがないという言葉で、手が無事だとは判断できなかった。

昌彦さんは母親の左肘へ手を伸ばし、桶ごと玄関まで持とうかと言った。多津子さんは肘を引き、持ち上げないで、水がこぼれたら、と答えた。昌彦さんが腕だけ支えると言ってまた近づくと、多津子さんは首を振った。昌彦さんは手を止めた。右手は握られていた。

昌彦さんは左手で、母親のための椅子を流しへ寄せた。多津子さんが右手を椅子の背へ掛けて腰を下ろしかけると、左の手首が桶の縁へ寄った。

「その手、上げないで」

昌彦さんが言った。多津子さんは腰を浮かせたまま止まった。炎はまだ水の中にあった。そこまで熱いのか、と多津子さんが尋ねると、昌彦さんは、熱くはないと答えた。それでも動かさないでほしい、さっき布巾がすぐ燃えたから、と続けた。

多津子さんは水越しの爪の上で揺れる火を見てから、息子へ顔を向けた。

「今は熱くないんでしょう」

「今、俺がいるところは」

昌彦さんは流しから離れたまま答えた。右の人差し指をかばい、ほかの指も軽く曲げていた。多津子さんが左手を少し桶の底へ下げ、これなら、と尋ねても、昌彦さんは返事をしなかった。台所の入口の方へ、もう1歩下がった。

私は通話を続けながら、昌彦さんにも手を痛めていないか尋ねた。布巾を離すときに少し、と昌彦さんは答えた。多津子さんは火を水に沈めた姿勢のまま、息子の右手を見ようとした。

「開いてみせて」

「母さんのが先だよ」

私は、昌彦さんの指にも赤みがあり、本人が痛めたと言っていることを電話で伝えた。救急隊が着くまでの間、昌彦さんは廊下を挟んだ洗面所で右手を水に当て、私が多津子さんのそばに残った。救急隊は10分ほどで着いた。隊員は桶を持ち上げず、多津子さんを椅子に座らせたまま、桶ごと担架の上へ載せる方法を相談した。多津子さんはこの後、桶に左手を入れたまま病院へ運ばれた。私は搬送先には同行していない。掲載した流しと布巾の写真は、2日後に昌彦さんの許可を得て私が撮った。当日はカメラを出していない。

霧島秀一撮影。ステンレス製の流しにある白い布巾。片側の縁が黒く縮み、浅い切れ込みのような焼け跡がある。
霧島秀一撮影。2025年1月20日、槙瀬さん宅。流しに残されていた布巾。指にかぶせた際に燃えた縁が黒く縮んでいる。

1月20日、私は昌彦さんに呼ばれて、もう一度この家を訪ねた。多津子さんは18日の夜のうちに家へ戻っていた。救急車で運ばれる途中、病院の近くで火は消えたという。親指にやけどの跡はなく、検査でも異常は見つからなかった。昌彦さんの人差し指には、薄い水ぶくれができていた。その夜、昌彦さんは母親を家まで送り、5年ぶりにこの家へ泊まったという。翌朝の食事も、2人で取った。

流しの中には、焦げた布巾がそのまま残っていた。2人とも、捨てる前に私に見せておきたかったという。写真を撮った後、昌彦さんは居間の茶箪笥の引き出しから、ビニールの袋に入った書類を出した。

令和元年の秋の日付が入った、消防署の罹災証明書だった。台所の一部焼損、とある。多津子さんが揚げ物をしていた鍋から火が出た日のものだった。

その日、たまたま来ていた昌彦さんが、濡らした布巾を鍋にかぶせて火を消した。そのとき、右手の人差し指の脇にやけどを負った。今回赤くなったのと同じ所で、よく見ると古い跡が白く残っていた。

昌彦さんは、ガスのコンロをやめるよう母親に言った。多津子さんは、料理は自分の手で火を見てしたいと言って聞かなかった。言い合いになり、昌彦さんはそれから5年、この家で食事をしていなかった。用があるときは玄関先で済ませていたという。正月も、届け物だけを置いて帰っていた。多津子さんは、それを責めたことはなかった。

「火のある所に、もう来たくなかったんです」

多津子さんがコンロを電気のものに入れ替えたのは、去年の12月だった。引き出しには、コンロの保証書も一緒に入っていた。購入日の欄は12月14日で、昌彦さんの誕生日だった。多津子さんは、日付は電器店の都合で決まっただけだと言った。昌彦さんは保証書の日付をしばらく見ていた。

多津子さんは、昌彦さんには知らせず、年が明けてから電話で、夕飯を食べに来ないかとだけ言った。18日、昌彦さんは台所に入ってから、コンロが替わっていることに気づいた。冷蔵庫を開けたのは、何を言えばいいか分からなかったからだと話した。

多津子さんは、親指に火が出たとき、まず思ったのは息子の手のことだったという。布巾をかぶせられたとき、5年前と同じことをさせたと思った。息子に腕を支えさせなかったのも、桶を持たせなかったのも、そのためだった。

「熱くないのは私だけだって、分かっていたので」

昌彦さんは、罹災証明書を袋へ戻した。18日に「今、俺がいるところは」と答えたのは、母親の火の近くにいると、また自分の手が熱くなる気がしたからだと話した。

多津子さんは、この日も夕飯を作ると言って台所へ立った。電気のコンロに鍋を載せ、つまみを回した。昌彦さんは台所の入口に立っていた。多津子さんは振り向かずに、小皿を2枚出してほしいと言った。昌彦さんは入口から1歩入り、食器棚の前で、まだ水ぶくれの残る右手を伸ばした。