地方の公民館では、人形劇のサークルが練習を続けていることがある。手を入れて動かす布の人形を使い、子ども向けの短い劇を年に一度発表する。人形の口を開けるのは、中に入れた演じ手の指である。声も、演じ手が出す。
机に伏せて置いた犬の人形が、口を開けて台詞を言った。手を入れる胴の裾は、こちらへ向いている。人形を作った野添邦史さん(68歳)は、机から離れた椅子に座っていた。
2023年10月21日、北都県南條市の公民館で見た場面である。野添さんは地域の人形劇サークルに参加し、仲間の花倉佐和子さん(65歳)と、翌月の発表会に向けた練習をしていた。サークルは2009年に始まり、今は6人で活動している。発表会は毎年11月に公民館の和室で開き、近所の子どもが30人ほど見に来る。2人から、手を入れなくても犬の役が喋ると相談され、私も21日の練習に同席した。
犬は茶色の布でできており、丸い黒い鼻と垂れた耳が付いていた。上下の顎にはそれぞれ厚紙が入り、口の両脇の布でつながっている。胴の裾から手を入れ、上顎の内側へ4本の指、下顎へ親指を当てて口を開閉する。声に合わせて顎を動かすと、犬が話しているように見える人形だった。
野添さんは、今年の演目に合わせてこの犬を作った。旅に出る主人に、留守番をしていた犬が同行を頼む短い話で、台本も野添さんが書いた。花倉さんが主人役の声を読み、野添さんが犬を動かしながら、その台詞を言う予定だった。
練習では、犬が少しずつ遠慮をやめ、最後には強く頼めるようにしたかったという。口を大きく開ける箇所と、相手を見上げる箇所を台本に書き込んでいた。2人は同じ場面を繰り返し、野添さんの声と犬の顔の向きを合わせてきた。
異変に気付いたのは10月15日だった。花倉さんが「今日は遠くまで行くんだ」と読むと、野添さんが息を吸ったところで、腕の犬が「それなら、私も連れていってください」と言った。続けようとした野添さんの声と、犬の声が重なったという。
野添さんが手を抜いて机へ置いても、花倉さんが前の台詞を読むと、犬は同じ言葉を返した。花倉さんは読み進めるのをやめた。その後は人形も喋らず、2人はその日の稽古を終えたという。
私が来た21日も、花倉さんが主人の台詞を読み始めるまでは、犬の口は閉じていた。野添さんは机の上に犬を伏せ、顎の下へ畳んだタオルを敷いた。顔は花倉さんの方を向き、平たくつぶれた胴の裾が私の方へ開いていた。
花倉さんが「今日は遠くまで行くんだ」と読むと、犬の下顎がタオルに載ったまま、上顎が持ち上がった。
「それなら、私も連れていってください」
口の開閉に合わせて声が聞こえた。野添さんの声より低く、少しかすれていた。野添さんは両手を膝へ載せ、私の隣にいた。花倉さんも台本から顔を上げていた。言い終わると顎は合わさり、黒い鼻が元の位置へ下がった。
野添さんに断って胴の布を頭の近くまでたくし上げると、裾から中を見通せた。上下の厚紙の裏と、布の縫い目が見える。声を出す器械や、顎を引く糸は見えなかった。私は人形を元のタオルへ戻し、2人の許可を得て、机全体と人形の内側を撮影した。

花倉さんが次の台詞を読む前に、野添さんは犬へ手を入れた。人形の頭を起こし、花倉さんの方を向かせる。今度は自分でも読んでみる、と話した。
「道が長いから、疲れるよ」
花倉さんの言葉へ、野添さんが「疲れたら」と返しかけた。同時に犬の口が開き、低い声で「疲れたら、そこで休みます」と続いた。野添さんは途中で声を止めたが、犬は最後まで言った。言い終わるまで、野添さんの唇は閉じていた。
野添さんは、開く顎に指を合わせていたという。自分の声に合わせて顎を動かすつもりが、人形の中で指を押され、その動きに従っていた。犬の頭を振ったり、花倉さんへ向けたりするのは、野添さん自身の腕だった。
「今のままでも、掛け合いはできますね」
花倉さんはそう言って、次のページを開いた。野添さんは先へ進まないでほしいと頼み、犬を胸元へ下ろした。口の両脇を外から持ち、もう一度、直前の台詞を読んでもらった。犬の口が開いた。野添さんが上下の顎を合わせると、「疲れたら」の続きは籠った声になった。指の間で、顎を覆う布が何度か膨らんだ。手を緩めたときには台詞が終わっており、口は閉じたままだった。
私は、犬が言った言葉を台本で確かめた。どれも野添さんの書いた台詞だった。人形が雑談に返事をすることはなかった。誰の声なのかは分からなかった。花倉さんは、野添さんの声に似ているが、もっと年を取った人の声に聞こえると話した。
休憩の間、野添さんは鞄から古い大学ノートを出した。台本の下書きを書き留めてきたもので、7月の日付がある最初の稿では、話の終わりが今と違っていた。犬は主人を見送り、「それなら、ここで待っています」と言って幕になる。ノートには犬の名前の候補も並んでいた。最初に書かれ、線で消してあったのが「チャコ」だった。劇の犬には、名前がない。
「連れていってください」に書き換えたのは9月だった。花倉さんが、犬がもっと強く頼む方が子どもに伝わると言ったためである。花倉さんはそのことを覚えていた。ただ、なぜ野添さんが初めは見送る話にしていたのかは、聞いていなかったという。
野添さんは、自分の家で15年飼っていた犬の話をした。名前はチャコで、茶色の雑種だった。今年の5月、野添さんは手術のため2週間入院し、その間チャコを市内のペットホテルに預けた。チャコは6月1日、ホテルで死んだ。迎えに行く予定の2日前だった。野添さんは、チャコの首輪を今も玄関の靴箱の上に置いている。
野添さんは退院した日に、ホテルへ一人で話を聞きに行った。係の人によると、チャコは最後の数日、預かり部屋の入口の方を向いて寝ていた。食事はほとんど取らなかった。
人形の茶色の布は、チャコが寝床に使っていた敷物を切って縫ったものだという。黒い鼻だけは、手芸店で買ったボタンである。目は付けていない。
「入院するとき、玄関で、すぐ迎えに来るからと言ったんです。あいつは座って見ていました」
最初の稿で犬を見送らせたのは、そのときのチャコの姿を思い出していたからだった。書き換えた後、野添さんは最後の台詞の声を決められずにいた。強く頼む声を出そうとすると、喉が詰まったという。
花倉さんは、本番をどうするかはほかの仲間にも話してから決めようと言った。別の人形で練習を続けることもできる。野添さんはうなずいたが、今日はこの犬で、最初の場面をもう一度やりたいと答えた。
「最後の頼み方を、自分で決めたいんです。まだ、声が決まっていないので」
野添さんは犬を胸の高さへ持ち上げた。中へ入れた右手で頭を支え、左手を顔の外側へ回した。上顎に指を掛け、親指を下顎へ当てる。花倉さんは台本を最初のページへ戻した。
「今日は遠くまで行くんだ」
犬の口が開きかけた。野添さんは左手で上下の顎を押さえた。その手の中から、籠った声が続いた。
野添さんは犬を花倉さんへ向け、自分の声で「それなら、私も連れていってください」と言った。声を伸ばした最後のところで、犬の頭を少し上へ向けた。左手は、犬の口が開かないように押さえたままだった。
花倉さんは鉛筆を取り、台本の最後の台詞の横に「犬 野添」と書いた。野添さんが左手を離しても、犬の口は閉じたままだった。



