個人で営む喫茶店の注文伝票には、常連客が何を頼んできたかが、店主の手書きで何年分も残っていることがある。
北都県南條市の住宅街に、昼には定食も出す喫茶店がある。店主の枝平美也子さん(62歳)は、客の注文を聞くと伝票に書き、控えを厨房の脇の箱へ重ねていく。窓側に2人掛けの卓が並び、奥に食事を作る厨房がある。注文は、客が口を開き、店主がそれを聞いて書く。普通は、それ以外の順番になりようがない。
2024年3月3日、日曜日の昼、常連客の刈屋定彦さん(47歳)が昼食を頼んだとき、枝平さんは書く手を止めた。いつもの焼き魚だろうと思い、伝票に「焼」と一字書きかけたところだった。「しょうが焼き定食」という声は、確かに刈屋さんの声だった。ところが刈屋さんの口は閉じていて、声が終わってから唇が動いた。動いている間は、何も聞こえなかったという。
「口を動かさずに話したんですか、と聞いてしまいました」
刈屋さんは近くの事務所に勤め、休日にもこの店を使う。自分では普通に話したつもりで、それまでは家族との会話でも気づいていなかった。2人はその日、向かい合って短い会話を繰り返した。枝平さんの問いは口の動きに合わせて聞こえるのに、刈屋さんの答えは先に聞こえ、その後に唇が動いた。刈屋さん自身も、答えようとする前に自分の声を聞いていたという。5日、刈屋さんから私にメールが届いた。相手の聞き間違いだけではなさそうなので、一緒に話してほしいとあった。
3月9日、土曜日、私は約束より少し早く店に入り、枝平さんに断って客席を撮った。この時間、ほかに客はいなかった。刈屋さんが来たので、私は窓を背に、刈屋さんは通路を背にして座った。2人の間には、飲み物の品書きと砂糖入れが置かれていた。私は、卓の端に録音機を置かせてもらった。
紅茶を頼む声が聞こえても、枝平さんは注文を書かなかった。刈屋さんの口は閉じていた。少しして刈屋さんが顔を上げ、唇を動かした。今度は声が聞こえなかった。枝平さんはその動きが終わるのを待ち、紅茶を用意しに行った。
紅茶を待つ間に、今の声は本人にも聞こえたか尋ねた。「聞こえました。今度も、先でした」という声がしてから、刈屋さんの唇が動いた。
私はまず、普通の説明を順に確かめることにした。聞き間違いなら、録音には残らない。後で再生すると、録音機には刈屋さんの声がはっきり入っていて、その後の数秒は店の換気扇の音しかなかった。近くの卓から誰かがまねをしたのでもない。店にいたのは私たち3人だけだった。刈屋さんは自分から上着のポケットを空けて見せた。財布と鍵と電話で、電話の画面は消えていた。
録音で測ると、声が聞こえてから唇が動き始めるまでの間は、2秒から4秒ほどだった。長さは毎回違う。「はい」のように短い返事でも、少し間を置いて唇が動いた。声の大きさや響きは、枝平さんの声と同じく、卓の向かいから届く普通の話し声だった。
残るのは、刈屋さんが唇を動かさずに声を出している、という説明だった。それも、少し後で成り立たなくなった。
運ばれてきた紅茶を飲みながら、刈屋さんは3日の注文のことを話した。あの日は、焼き魚としょうが焼きのどちらにするか考えていたつもりだったという。
「魚にするのをやめた、という覚えはあるんです。でも、そのときには、もうしょうが焼きって聞こえていました」
この説明も、声が先に聞こえ、後から口が動いた。刈屋さんは自分で選んだ料理が出てきたと思って食べた。ただ、選んだことを伝えたつもりの時には、枝平さんはもう厨房へ向かいかけていた。
紅茶を半分ほど飲んだところで、枝平さんが卓の横へ来た。11時から食事を出すので、昼も食べていくかと尋ねた。刈屋さんはカップを傾けている最中だった。
「食べていきます。品書きをお願いします」
明瞭な声がした。カップの縁は刈屋さんの唇に当たったままで、刈屋さんは顔を上へ向けて紅茶を飲んでいた。口の中に紅茶があるまま声を出せば、こぼれるか、むせるはずだ。どちらも起きなかった。枝平さんは私と刈屋さんを見比べ、卓の横に立っていた。
刈屋さんはカップを下ろし、飲み込んだ。それから枝平さんを見て口を動かした。私は唇が閉じるまで見ていたが、返事は聞こえなかった。カップを受け皿へ置く音は、その動作に合わせて聞こえた。
枝平さんは、昼の品書きを2人分持ってきた。飲み物の品書きを引き取り、写真の載った冊子をそれぞれの前へ置いた。私は2人に断り、卓の上を撮った。刈屋さんのカップにはまだ紅茶が残り、その横に昼の品書きが閉じて置かれていた。

枝平さんは3日以降、声だけを聞いてすぐに注文を通さないようにしている。伝票には、先に聞こえた料理名を鉛筆で小さく書き、本人の口が動き終わってから、確かめた注文をボールペンで書き直す。鉛筆の字は消さずに残している。口を動かしている刈屋さんを置いて厨房へ戻ると、話の途中で離れたように感じるからだという。今のところ、鉛筆の料理名とボールペンの料理名が違ったことはない。
私はそれを聞いて、少し安心しかけた。先に聞こえる声は、刈屋さんが言うはずの言葉を早く出しているだけなのかもしれない。
枝平さんは、厨房脇の箱から去年の伝票の控えも出してくれた。刈屋さんが昼食を頼んだ日の伝票を、枝平さんと一緒に数えた。去年の3月から今年の2月までに46枚あり、そのうち41枚が焼き魚の定食だった。肉の料理は2枚しかない。3日の伝票には、「焼」と書きかけて線で消した跡があり、その横に「しょうが焼き」とあった。
「魚の人なんですよ。ずっと」と枝平さんは言った。
数を聞いた刈屋さんは、「最近は魚に飽きていたのかもしれません」と答えた。その声も先に聞こえ、後から唇が動いた。飽きていたと思い始めたのがいつなのかは、本人にもはっきりしないという。
枝平さんが水差しを取りに戻ると、刈屋さんは昼の品書きを開いた。私もページをめくった。冊子には定食の写真と料理名が並び、魚の料理と肉の料理でページが分かれている。
「鶏と野菜の甘酢あんをお願いします」
刈屋さんの声だった。厨房の前にいた枝平さんが振り向き、こちらへ歩いてきた。刈屋さんは口を閉じたまま、自分の前のページを上から下へ見ていた。そこには焼き魚と煮魚が並んでいた。
刈屋さんは次のページを開いた。指を料理の写真に当て、隣の名前を確かめた。枝平さんが卓まで来たところで顔を上げ、口を動かした。声は聞こえなかった。枝平さんは伝票に鉛筆で書いた「鶏甘酢」の横に、ボールペンで同じ名前を書いた。
私が9日に見たのは、この店での数回のやり取りだけで、3日より前にこの状態が始まっていたかは分からない。ただ、伝票の上で二つの料理名が一致し続けていることの意味は、初めに考えたのとは違って見えた。刈屋さんが言うはずの言葉が先に出ているのではなく、先に出た言葉を、刈屋さんが後から選んでいるようにも読める。刈屋さん自身は、どちらの注文も自分で選んだと話している。鶏の甘酢あんも、品書きの写真を見て食べたくなったのだという。
枝平さんが厨房へ戻った後も、刈屋さんは品書きを閉じなかった。「鶏と野菜の甘酢あん」の写真を見て、皿に添えられた小鉢まで指で追っていた。
やがて枝平さんが定食を運んでくると、刈屋さんは冊子を卓の端へよけた。品書きは閉じず、運ばれた皿と並べたままにしていた。



