家族が眠っている人の手に触れるのは、たいてい起こすためではない。出掛ける前に、相手がそこにいることを確かめるような、言葉にしない習慣であることが多い。
北都県南條市の田郷美津子さん(63歳)は、出勤前、昼寝をしている夫の右手へ自分の手を重ねてから家を出る。2024年5月19日、日曜日の夕方は、その手に触れられなかった。
夫の田郷昭文さん(66歳)は、いつもの座敷で仰向けになっていた。右手は薄い掛け布団から出て、敷布団の上にあった。美津子さんが掌を下ろすと、昭文さんの指の間ではなく、手の甲の中央へ自分の指が入ったという。
美津子さんは手を引き、夫の名を呼んだ。昭文さんが目を開けると、美津子さんはもう一度夫の右手へ触れた。今度は夫の手の甲に掌が当たり、温かかった。昭文さんには、初めに触れられた感じも、痛みもなかったという。
美津子さんは近所の菓子店で夕方から働いている。昭文さんは3月に仕事を辞めてから、昼食の後に座敷で休むことが多くなった。美津子さんが出掛ける時刻まで寝ていることもある。手に触れるのは、小声で「行ってきます」と言いながら続けてきたことだった。
5月22日、美津子さんから私に連絡があった。その日も夫の手をつかめず、声で起こした後には普通に握れたという。昭文さんも、起きている間に説明を聞くだけでは、どんなことか分からないと話していた。2人に会えたのは、6月1日、土曜日の午後だった。
訪ねると、昭文さんは食卓で新聞を読んでいた。右手で湯飲みを持ち、私に隣の椅子を勧めた。左の手首には、長女から贈られたという腕時計型の活動量計を着けていた。歩数や脈を測る機械である。私が触れて確かめてもよいか聞くと、新聞を畳み、右の掌を上へ向けた。指先から手首まで、普通に触れた。昭文さんは、私の指が触れた所を左手で指していた。
私が初めに考えたのは、美津子さんが寝ている夫の手と布団のしわを見間違えた可能性だった。眠っている人の腕は、思ったより下に沈んでいることがある。昭文さんは、いつもこの後は横になるので、よければ待っていてほしいと言った。眠っている間に右手へ触れることについても、本人に了承を得た。
昭文さんは座敷へ移り、畳に敷いた布団へ横になった。美津子さんが膝の辺りへ薄い掛け布団を掛けた。右腕は身体の脇へ伸び、肘から指先まで外へ出ていた。私は美津子さんと廊下側に座り、連絡をもらった日の話を聞いた。
しばらくすると、昭文さんの小さな寝息が聞こえた。目は閉じており、胸はゆっくり上下していた。美津子さんが話をやめ、右手のそばへ寄った。夫の右手の甲へ指を下ろすと、指先は皮膚を押しへこませず、そのまま見えなくなった。第一関節の辺りまで入ると、そこで止まった。昭文さんの右手は動かなかった。
「下の布に当たります」
美津子さんが手を引いた後、私も敷布団の脇へ膝をついた。まず腕の横の白いシーツに触れた。指で押すと、その下の綿がへこんだ。次に、昭文さんの右の手首より少し肘側へ、指を下ろした。爪が皮膚の面を通り、指先が見えなくなった。温かさも腕の硬さも感じず、そのまま下にあるシーツに触れた。指を押すと敷布団がへこみ、見えている腕はその位置に残った。私はすぐに指を引いた。腕の表面に穴は残らなかった。見間違いの説明は、私の指の上では成り立たなかった。
美津子さんが昭文さんを呼んだ。昭文さんは目を開け、顔をこちらへ向けた。美津子さんが右手を握ると、手首が少し持ち上がった。私も同じ腕へ指を置いたが、今度は皮膚のところで止まった。昭文さんは、呼ばれる前に何をされたかは分からないと答えた。寝ていた場所を移った覚えはなく、敷布団も、初めに横になった位置のままだった。
昭文さんが食卓へ戻った後、私は了承を得て、空いた布団を撮った。食卓では美津子さんが私のカメラを受け取り、起きている昭文さんの腕に、私が触れているところを撮ってくれた。昭文さんは腕を動かさずに待ち、撮り終わると新聞を手前へ引き寄せた。

私は、活動量計の記録を見せてもらえないか頼んだ。昭文さんが電話の画面を開くと、その日の昼寝の時間帯に、脈の線が途切れている所があった。15時12分から15時19分まで、表示は「未装着」になっている。私と美津子さんが腕に触れたのは、その7分の間だった。機械は手首の裏の光で脈を読む。腕から外れたか、肌との間に隙間ができると、こう出るという。昭文さんは、その間ずっと左の手首に着けたままだった。
画面を前の日へさかのぼると、同じ「未装着」の帯が、昼寝の時間に毎日のように出ていた。5月19日と22日にもある。いちばん古いものは4月27日で、昭文さんが活動量計を着け始めて2週間ほどたったころだった。長い日は20分を超えていた。短い日でも5分ほどあった。夜、布団で眠っている時間には、一度も出ていなかった。機械の故障なら、夜にも同じ表示が出てよいはずだ。美津子さんは、夜は隣の布団で寝ていて、夜中に夫の手へ触れたこともあるが、通り抜けたことはないと話した。
「19日に初めて起きたわけじゃなかったんですね」
美津子さんは画面を見たまま言った。気づいたのは、19日に美津子さんがたまたま手に触れたからだった。それより前の昼寝の間にも、同じことが起きていた可能性がある。右手だけなのか、左の手首まで含めた身体のどこまでなのかは、この記録からは分からない。
昭文さんは、長女に電話して、記録の見方をもう一度聞いてみると言った。病院へ行くかどうかは、まだ決めていない。眠っている間のことは、起きて診察室へ行っても見せようがないからだという。
話を終えて帰り支度をしていると、美津子さんが仕事用の手提げを持ってきた。昭文さんはまた座敷へ移り、私たちに断って横になっていた。読みかけの新聞が枕の横にあった。
美津子さんは玄関へ行く前に座敷をのぞいた。昭文さんの目は閉じていた。右手は先ほどと同じように掛け布団の外へ出ていた。美津子さんは手提げを畳へ置き、その手のそばにしゃがんだ。
「行ってきます」
小声で言い、昭文さんの手へ掌を下ろしかけた。途中で止めて、夫の顔を見た。昭文さんは寝息を立てていた。美津子さんは今度は名を呼んだ。昭文さんが目を開け、「もう行くの」と聞くと、美津子さんはうなずき、夫の右手を握った。握ったまま、夕食のおかずを冷蔵庫のどこへ置いたか話した。昭文さんは「分かった」と答えた。
出るまでまだ5分ほどあり、駅の方まで一緒に歩けるというので、私も廊下側で待った。美津子さんは夫の右手を上から包み、そばに座っていた。昭文さんは目を閉じた。
しばらくして、美津子さんの掌が下がった。昭文さんの右手は同じ形のまま見えているのに、美津子さんの指は、その中を通って白いシーツに着いた。昭文さんの手は動かず、寝息が続いていた。
美津子さんは指を開き、自分の手だけを手前へ引いた。夫の名を呼ぶと、昭文さんは目を開け、右手を差し出した。美津子さんがその指先へ触れると、手は夫の指先に当たって止まった。昭文さんが指を曲げる前に、美津子さんは手を引き、畳の手提げを拾った。
「行ってきます」
美津子さんは立ち上がった。昭文さんは上体を起こし、差し出した右手を掛け布団へ戻した。美津子さんが戸口を出るときも、両手は手提げの持ち手に掛かっていた。



