地方の読書会では、会員が自分で費用を出して小さな本を作り、仲間へ配ることがある。もらった人は読んで、会ったときに感想を伝える。気になった所に鉛筆で印を付ける人はいても、人から借りた本や贈られた本の余白へ、黙って書き込む人は少ない。書いていない字が、余白に増えることはない。
贈られた短編集の余白に、書いた覚えのない書き込みが増えた。北都県南條市に住む久下沢邦子さん(68歳)から、2025年1月8日にそう連絡があった。別の短編の脇に「説明が多い」と書かれているが、自分では書いていないという。添えられた写真だけでは、誰がいつ書いたかは分からなかった。久下沢さんは、本を読むときに鉛筆さえ手元に置かない。読み終えた本は、居間の机の上に閉じて置いているという。
本は、読書会の仲間の槙平和成さん(72歳)が昨年、自分で費用を出して作ったもので、久下沢さんは12月に贈られていた。2人は読書会で知り合い、本を貸し借りする間柄だという。久下沢さんが槙平さんにも相談すると、本を見に来ることになった。私も同席してよいと、2人から了承をもらった。槙平さんは、自分の手元にある本には書き込みがないと話したが、私はその本を見ていない。
1月12日、久下沢さんの家へは私が先に着いた。机には灰色の表紙の本が閉じてあり、上端から薄い茶色のしおりが出ていた。私は久下沢さんに断り、その状態を撮った。槙平さんが来ると、久下沢さんは3人分のお茶を机へ運んだ。
槙平さんは、まず「説明が多い」という字を見た。縦に並ぶ印刷の文字とは違い、余白へ横書きされていた。久下沢さんの字に似ていると思ったという。久下沢さんは、以前送ったはがきの字と似ているのかもしれないが、本には書いていないと答えた。
「書いたとは思っていません。どうして出たのかを見たいんです」
槙平さんはそう言って、紙から手を離した。久下沢さんはしおりのあるページへ戻した。靴を買い替える男の話だった。新しい靴を履いて帰ることにした男が、古い靴も包んでもらう。その終わりの部分を、久下沢さんはもう一度読みたかったという。男は古い靴を捨ててもらおうとして、返事をためらう。店員は答えを急がず、新聞紙を広げて待っている。
開いた本を2人の間に置き、久下沢さんは湯飲みを取った。私は机の横から、本文の最後の数行を読んでいた。その数行の下に、短い黒い線が引かれた。
横に延びた線が止まると、少し下で別の線が右へ曲がった。「こ」だった。その右にも2本の線が順にでき、もう一つ「こ」になった。黒い字の周りは白いままで、薄い文字が一斉に濃くなったのとは違っていた。3人の手は紙から離れていた。ページも動いていない。
2つ目の「こ」の右に細い縦線ができ、その隣へ丸みのある線が続いた。「は」と読める形になった後も、右へ字が増えた。「長」の横線、縦線、下の払いが順に現れ、最後に「い」の2本ができた。
「ここは長い」
槙平さんが声に出した。黒い5文字は、男が古い靴を包んでもらう場面のすぐ下にあった。私は最初の短い線から最後の「い」まで、同じ余白を見ていた。筆記具が触れない白い紙に線が増え、私が読める文字になった。久下沢さんは、今の字も自分が書いたわけではないと言った。槙平さんはうなずいた。私は2人に確かめ、誰も本に触れないまま、下の余白を近くから撮った。撮影中、字は増えなかった。

槙平さんは本を自分の方へ少し寄せ、しばらく黙って同じ頁を読んだ。それから鞄を開け、クリップで留めた紙の束を出した。この短編集の、印刷に回す前の原稿のコピーだった。
紙の束の余白には、赤いペンの横書きが並んでいた。「説明が多い」「ここは長い」。靴を包む場面の脇にも、同じ5文字があった。本の余白に出た書き込みは、久下沢さんが10日に別の短編の脇で見つけていた「人物が多い」を合わせて、これで3か所になる。どれも、原稿の赤い字と同じ場所に、同じ言葉で書かれていた。原稿の方には、そのほかに十数か所の書き込みがあったが、槙平さんが直した所の書き込みは、本には出ていなかった。書いたのは、読書会の世話役を長く務めた秋庭澄夫さん(享年80歳)だという。秋庭さんは昨年の4月に亡くなった。
槙平さんは、秋庭さんに原稿を見てもらってから、印刷するつもりだった。秋庭さんは入院中の病室で読み、赤いペンで書き込んで返してくれた。それが最後になった。槙平さんは、書き込みのいくつかに従い、靴を包む場面だけは直さずに印刷した。
久下沢さんは、原稿の赤い字と本の余白の黒い字を見比べた。「長」の払いの角度が同じだった。久下沢さんも秋庭さんの字は知っていた。読書会の案内のはがきは、いつも秋庭さんの手書きだったという。最初に自分の字と似ていると思われたのは、秋庭さんの字をまねて案内を書いていた時期があったからだと話した。
「ここは、自分でも長いかとは思っていたんです」
印刷する前に一度、靴を包むやり取りを短くしたが、読み直して元へ戻したのだという。古い靴を持ち帰った、とだけ書いても筋は通る。けれど、店員とのやり取りを残したかったと話した。槙平さんは、久下沢さんに本を贈るとき、秋庭さんのことは書かなかった。この場面をどう思うか、誰かに聞きたかったという。
「そこが好きだったんです」
久下沢さんが言った。槙平さんは顔を上げた。
「捨てるのか、持って帰るのか決められないでしょう。あの人。店員さんがもう紙を広げてくれていて」
久下沢さんは、男が言い直すまで店員が待っているところを指した。槙平さんは、その行から最後まで読み直し、指を余白の手前へ置いた。
「気を遣わなくていいんですよ。こういうのを聞きたかったので」
久下沢さんは、書いてある方が自分の感想だと思っているのか、と尋ねた。槙平さんはすぐに違うと答えた。久下沢さんが書かなかったことは目の前で見た。ただ、ここを切ろうと迷っていたのも本当なので、直すならどうすればよいか聞きたい、と言った。私は、字が現れたところは見たが、その文が誰の感想なのかは分からないと伝えた。
槙平さんは原稿の束をめくり、最後の頁を開いた。本文の終わりの下に、赤いペンで短い1行があった。
「靴の話がいちばんいい。長いと書いた所も含めて」
槙平さんは、この1行を読んだのは今が初めてだと言った。返してもらった日は、余白の書き込みを順に追っただけで、最後の頁の下までは見ていなかったという。
槙平さんは上着のポケットから手帳を出し、本の横へ置いてペンを取った。久下沢さんは本を回して、本文を自分の方へ向けた。しおりを使って、店員が新聞紙を広げる行を示した。
「すぐ包み始めないで、返事を待っているのがいいんです。持って帰ると言えるまで、急がせないから」
槙平さんは、新聞紙を広げるところは残そう、と言った。手帳へ「靴を包む場面」と書き、その下へ「短く」と加えて、久下沢さんの方へ向けた。
「紙を出して、次の行ではもう渡すことにしたら、どうでしょう」
久下沢さんは、まだ男が返事をしていないと答えた。しおりの先を、さっきと同じ行へ戻した。
槙平さんはペンを持ったまま、本をのぞいた。久下沢さんのしおりは印刷された文章を指していた。槙平さんはその下の「ここは長い」をもう一度読み、赤い字の原稿の同じ場面と並べた。それから手帳に書いた「短く」の脇へ線を引いた。



