地方の集会館では、舞台に引割幕と呼ばれる黒い幕がつってあることが多い。閉じれば、司会者が前で話している間に、後ろで次の場面を用意できる。開ければ、奥の壁まで見通せる。幕の向こうにあるのは、たいてい机や椅子と、灰白色の壁だけだ。
北都県南條市の桜台集会館で、秋の発表会を準備していた劇団から私に連絡が来たのは、2022年10月29日の夜だった。閉じた幕の中央を少し分けると、庭が見えたという。
最初に庭を見たのは、その日の稽古に参加した俳優の谷古宇薫さん(34歳)だった。閉じた幕の中央から登場する段取りを確かめようとして、布の端をつかんだ。顔を出す前に、隙間の下の方に白い砂利が見えた。驚いて手を離し、舞台の脇へ回った。そこからはいつもどおり、客席の前へ出られたという。
「外に出てしまったのかと思いました。でも、足元は舞台の板のままでした」
私が集会館へ行ったのは翌30日の昼だった。11月6日の発表会に向けて、この日は机や椅子を運ぶ順序を決めることになっていた。衣装はまだ持ち込まれておらず、出演者も普段着で集まっていた。
舞台の中ほどに、黒い幕が2枚つられている。脇にあるひもを引くと、左右へ開く。閉めると中央で布の端が重なり、後ろの様子を客席から隠せる。
集会館の管理人、山崎喜久夫さん(68歳)が幕を開けてくれた。奥には灰白色の壁があり、窓も出入口もない。壁際の長机には茶色い段ボール箱が2個載っていた。床に貼られた白いL字のテープは、劇で使う机を置く位置の目印だという。私は客席から舞台全体を撮った。
山崎さんが管理人になって12年になる。幕は2015年に一度張り替えたが、これまで隙間から庭が見えたという話は聞いたことがないという。劇団がこの集会館で発表会を開くのは3回目だが、閉じた幕の中央から登場する段取りを使うのは、今回が初めてだった。

庭の絵を描いた背景も、映写用のスクリーンもなかった。劇団は映写機を持ち込んでおらず、舞台の照明は客席側の天井にあるものだけだ。幕の後ろへは左右の脇から回れる。私は山崎さんと一緒にそこを歩き、壁と床を見た。幕のすぐ後ろまで、同じ木張りの床が続いていた。
谷古宇さんは、今日は中央から出たくないと話していた。演出担当の野々山由美さん(46歳)が代わりに確かめることになった。山崎さんが幕を閉めると、野々山さんはその後ろへ回り、中央の重なった端を両手で少し分けた。私は幕の前、客席に近い側で見ていた。
布の下半分に、幅15センチほどの細長い隙間ができた。その奥が明るい。白っぽい砂利が敷かれ、奥に低い緑の植込みが見えた。葉の一部は揺れていた。先ほど見た壁も、長机も見えない。
私が横へ動くと、手前の幕に遮られて、砂利や植込みの見える範囲が変わった。覗き窓から外を見るときと同じ変わり方だった。黒い布そのものには、庭らしい模様は出ていない。
「そちらからも、同じように見えていますか」
野々山さんの声は幕のすぐ後ろからした。私は、庭が見えると答えた。野々山さんも庭を見ていると言った。私は客席側から舞台の奥を向き、野々山さんは舞台の奥から客席側を向いている。普通なら、互いのいる側の舞台が見えるはずだった。
今度は私が幕の後ろへ回り、長机と壁を背にして、重なった布を分けた。やはり砂利と植込みが見えた。客席側に残った野々山さんに位置を聞くと、今、正面にいるという。声は近いのに、隙間には野々山さんも客席も見えなかった。私は隙間に顔を入れず、手を離した。
布の端は、両側とも厚い黒い生地だった。手で触れた範囲には硬い板や配線はなく、足元まで同じ布が垂れていた。山崎さんが幕を開けると、黒い布が左右へ寄り、長机と箱が見えた。開いていく途中で庭がどう消えたかは、動く布に隠れて追えなかった。
集会館の外も見た。建物の正面は舗装された駐車場で、裏は狭い通路だった。砂利と植込みの庭は、建物の周りには見当たらない。谷古宇さんも野々山さんも、場所に心当たりはないと話した。
山崎さんは、専門の業者に見てもらうまで幕を使わないことにした。劇団はその日のうちに、幕を開けたまま上演する段取りへ直した。机を片付ける間は司会を挟まず、出演者がいったん舞台の脇へ下がり、作業する人が出る。
11月1日、山崎さんから電話があった。集会館の倉庫に、開館のときに自治会が作った記念誌が残っていたという。私は再び集会館を訪ね、その冊子を見せてもらった。
記念誌によると、集会館が建ったのは1981年で、それ以前、この土地には宮下という家があった。家主が亡くなった後、遺族が土地を自治会に譲り、家は1979年に取り壊された。冊子には、取り壊す前に撮った家の写真と、間取りを書き写した図が載っていた。
間取り図では、母屋と離れが向かい合い、その間に中庭がある。中庭の両側には縁側があり、縁側と部屋の間は障子で仕切られていた。写真には、白い砂利と、低く刈り込んだ植込みが写っている。
山崎さんは、集会館の設計図を間取り図の上に重ねてみたという。建物の向きは昔の家とほぼ同じで、舞台の幕がつられている線は、中庭の真ん中を通っていた。客席は母屋の側、舞台の奥の壁は離れの側にあたる。
間取り図の通りなら、母屋の縁側から障子を細く開けても、離れの縁側から開けても、見えるのは同じ中庭になる。10月30日に、幕の前と後ろから、互いの姿の代わりに同じ庭が見えたことと、向きが合う。
記念誌の編集にかかわった人の中に、宮下家で育った人がいた。山崎さんの紹介で、今は市内の別の地区に住む宮下トシ子さん(86歳)に話を聞いた。
トシ子さんは、母屋と離れの間の障子を、家族はほとんど開け放さなかったと話した。離れには祖母が住み、母屋の家族とは食事の時間もずらしていた。用があるときは、障子を少しだけ開けて、中庭越しに声をかけた。
「開けても見えるのは庭だけで、向こうの顔は見えませんでした。それで、ちょうどよかったんだと思います」
祖母が亡くなると、離れは物置になった。障子を全部開けて、母屋から離れを見通せるようになったのは、それからだという。家が取り壊されたのは、その十数年後だった。
障子を開け放した日、トシ子さんの母親は、これで家が広くなったと言った。トシ子さんは、縁側から離れの奥の物置まで見えるようになった中庭を、それからあまり眺めなくなったという。
トシ子さんは、幕の話を聞いても驚かなかった。少しだけ開けたときに庭しか見えないのは、家にいたころと同じだと言った。ただ、劇団が幕を開けたまま上演することになったと伝えると、しばらく黙った。
「全部開けておけば、向こうも見えますからね」
記念誌の写真で、中庭の植込みは縁側の床ほどの高さだった。私たちが幕の隙間から見た植込みも、ほぼ同じ高さに見えた。葉の揺れ方が、風のある日の庭のものだったかどうかまでは、写真からは分からない。
業者の点検は、発表会の後になった。それまで、幕はひもで左右の柱に結ばれている。
11月1日の夕方、記念誌を倉庫へ戻しに行くと、劇団の稽古が始まっていた。幕は柱に結ばれたまま、奥の壁まで見えている。長机は白いL字に合わせて置かれ、昼の場面が終わると、運搬係の2人が両端を持って運んだ。29日に中央で足を止めた谷古宇さんは、舞台の脇から歩いてきた。野々山さんは、昔なら中庭の真ん中にあたる位置に、白いテープを1本足した。終幕で、2人の登場人物がそこから向かい合って話す段取りだという。



