古い交差点の案内標識には、地名が示す道の数と、実際に通れる道の数が合わないことがある。
福岡県八女市の八又交差点には、7本の道が集まっている。交差点の手前に立つ案内標識は、真ん中の丸から7本の矢印が放射状に伸びる形で、それぞれの先に行き先の地名が添えてある。初めて通る車は、この標識で自分の曲がる道を数えてから交差点へ入る。
近くの住宅地へ生協の個別配達に通う佐藤奈津恵さん(41歳)は、平日はほぼ毎日この交差点を通る。配達先の多くは交差点の北東の方角にあるが、北東へ向かう道はない。東の道から入って住宅地を回り込むため、毎回大きく遠回りをしている。
2020年12月20日の日曜日、休みの日に買い物の帰りで交差点へ差しかかった佐藤さんは、17時過ぎ、標識の矢印が普段より1本多いことに気づいた。7本の矢印のほかに、北東を指す短い線が出ていた。佐藤さんは車を路肩に止め、スマートフォンで標識を撮った。
「北東に抜けられるなら、配達がずっと楽になります。私が近道を見落としていただけかもしれない、と思ったんです」
佐藤さんが私に送ってくれたのは、その夕方の写真と、翌朝の配達に出る前に同じ場所へ車を止めて撮った写真である。私は初め、交差点へ入ってくる側の道を示す線まで、出口の矢印として数えているのではないかと思った。
2枚を並べてみた。普段の7本は、どちらの写真にも同じ形で写っている。20日の夕方の写真には、それらとは別に、先端が矢印になった線がもう1本あった。その横にも地名らしい文字があるが、拡大しても読めない。翌朝の写真では、その位置には何もない。佐藤さんは、カメラの画面だけでなく、標識を直接見たときにもその線があったと言った。
12月24日、私は標識が立つ場所へ行った。昼の標識の矢印は7本だった。佐藤さんの配達先へ向かう道を歩くと、公道だけを通って行くには確かに遠回りになる。北東側から交差点へ出る道があれば近い。しかし、交差点の北東の角には石垣が続き、上には生垣があった。車で曲がって入れる切れ目も、歩いて通り抜けられる隙間も見当たらなかった。
石垣の下には、幅3メートルほどの低い段差があった。道路の舗装を途中で切った端にも見える。石垣の内側へ続いているかは分からない。私は石垣と、その足元が一緒に写るように撮った。

私は標識を管理する県の土木事務所に、夕方と翌朝の標識の写真を見せた。担当者によると、標識は2010年に交換したあと、矢印の図を変えていない。8方向を示す標識を設置した記録もなかった。12月20日の夕方に職員が現場へ行った記録もなく、誰かがその日のうちに表示を直した、という説明には結びつかなかった。
担当者は、別の標識の矢印が映り込んだ可能性も挙げた。だが、交差点の周りにある案内標識はこれ1枚で、佐藤さんの写真の位置から見て背後に重なる看板もない。夕日の反射なら、光った部分は時間とともに標識の上を動くはずだが、20日の写真の線は、ほかの矢印と同じ太さの矢印の形をしていた。
今の標識は、矢印と文字を印刷した反射シートを板に貼ったものだという。古いシートの上に新しいシートを重ねていれば、下の図柄が光の具合で透けることもある。私は24日に標識の縁と裏側を見たが、シートを重ねた継ぎ目はなく、夜に標識を照らす照明も付いていなかった。
担当者は、交換前の標識の写真も出してくれた。2010年の交換工事のとき、撤去前に記録として撮ったものだという。古い標識は板に白い塗料で矢印を手描きしたもので、矢印は同じく7本ある。ただ、北東の位置だけ、地の色が周りより少し濃い。担当者は、昔の塗り直しの跡だろうと言った。何を塗りつぶしたのかを書いた記録は残っていない。
次に市役所で、交差点の古い道路図を見せてもらった。昭和の図には、「北東支線」と記された道がある。交差点から北東に延び、数十メートル先で途切れている。現在の図と交差点の形を合わせると、いま石垣がある方向とおおむね重なった。
図の余白には、手書きで「支線 葬列用 夕刻通行」とあった。どこへ向かう道かは書かれていない。昭和50年代の図になると、北東支線という名も、この書き込みも消えている。昔の道をたどれば近道が見つかる、という佐藤さんの期待には答えられなかった。支線の先から佐藤さんの配達先へ続く道は、どの年代の図にも描かれていない。
12月25日、地元で長く暮らす鈴木文成さん(84歳)に、この交差点に道は何本あるかと聞いた。古い図のことは先に話さなかった。鈴木さんはすぐに「8本」と答えた。ではどれかと尋ねると、方角を一つずつ指して数え始めた。
北東の角で指が止まった。石垣は、鈴木さんが子どものころからあったという。結局、実際に通れる道を挙げると7本になり、鈴木さんも答えを言い直した。「八又」という名前につられたのかもしれない、と笑った。
私は市役所で見た図の写しを見せ、余白の書き込みを読んでもらった。鈴木さんはしばらく黙ってから、子どものころの話をした。
「葬式が出ると、棺を担いだ列が夕方にこの交差点まで来て、北東へ入っていきました。ふだんは誰も通らない道です。石垣の手前で列が見えなくなるので、子どもは追いかけちゃいかんと言われました。交差点の道を数えるときは、その道まで入れて8本と教わったんです」
その道がどこへ通じていたのか、鈴木さんは知らない。大人に聞いても、山の方だ、としか言われなかった。葬列が出なくなってからは、誰もその道の話をしなくなった。石垣の下の段差は、鈴木さんの記憶では、列が石垣へ向かって入っていった場所とほぼ同じだった。
手描きの標識の濃い跡と、今の標識に夕方だけ出る線は、どちらも北東の同じ位置にある。古い標識に8本目が描かれていたのかどうかは、写真からは分からない。ただ、塗り直しの跡がそこにあることは、担当者も認めた。
12月27日の日曜日、夕方に佐藤さんともう一度、標識を見に行った。佐藤さんはこの1週間、夕方の配達ではなるべく東の道から回るようにしていたという。北東の矢印が出ているときに、うっかりその方角へハンドルを切りたくないからだ。この時期の日の入りは17時20分ごろである。17時を少し過ぎたころ、北東を指す矢印が見えた。
北東の短い矢印を1本目にして、佐藤さんと順に数えると8本あった。ほかの7本は、普段の標識と同じ位置にある。交差点へ入る側の線を数えたのではなく、先端の付いた矢印が8本だった。写真を拡大して推測していた線が、そのときは目の前の標識にあった。添えられた地名は、近づいて見ても読み取れなかった。
通行の邪魔にならない場所に立って見ていると、北東の矢印の先端が薄くなった。やがて線の途中も見えなくなり、標識の中心につながる付け根が最後に消えた。ほかの7本は、同じ白さのまま残っている。標識全体が暗くなったわけではなかった。
佐藤さんはその間、標識と石垣を交互に見ていた。矢印が示す方向に、入れる場所があるのかを気にしていたので、線が消えるところを全部は見ていない。私は標識を見続けており、石垣の向こうを同時には見ていなかった。少なくとも8本目の矢印が見えているあいだも、北東へ曲がって通れる道は見つからなかった。
矢印が7本になると、佐藤さんが自分の来た道を指した。
「ここは何本目でしたか」
私は佐藤さんが指した道を1本目にして、残った7本を数え直した。



