山あいの古い街道には、人の姿がないのに、後ろから足音だけが付いてくる坂があることがある。
北都県の旧白川街道は、峠を越える古い道である。県道のバイパスができてからは、峠を越える車も少なくなった。道の管理は県の土木事務所が受け持ち、職員が車で定期的に見回っている。今は朝夕に散歩の人が行き来する程度で、すれ違えば挨拶をする。
ふもとの集落に住む高橋章宣さん(71歳)は、毎朝この道を歩いて峠まで上り、折り返してくる。2021年1月、高橋さんから私に話と録音が届いた。坂の途中で、後ろから来る人に先へ行ってもらおうと立ち止まった。ところが、振り向いても誰もいない。待ってから歩き出すと、また背後で足音がする。
高橋さんは郵便局を退職してから20年近く、この道を歩いている。朝のこの時間に坂を通る人は、ほかに2、3人しかいない。どの人も、足音や歩く速さで見分けがつくという。足音を聞いた朝、高橋さんはその人たちに電話で尋ねたが、その時間に坂にいた人はいなかった。
「散歩の人に後ろにつかれたまま追い越されないと、こっちが速く歩いたほうがいいのか、道を空けたほうがいいのか迷うんです。それで止まったら、誰もいなかった」
録音したのは1月11日、7時23分からの約40秒だった。ぬれた路面を踏む音が、10メートルほど後ろから聞こえたと高橋さんは話した。自分の一歩にぴったり重なる音ではない。電話を取り出して録り始めてからも、後ろの足音は聞こえていたという。
私はファイルを再生した。風の音と、服が電話にこすれるような音が大きい。高橋さんが歩く音に重なって、鈍い音も聞こえる。ただ、それを後ろの人の足音として聞き分けることはできなかった。
音声を扱うソフトで開くと、音の大きさを示す波形が表示される。大きな擦れ音の間に、小さな波がほぼ一定の間隔で並び、録音の初めから35秒ほど続いていた。一歩ごとに足を下ろす間隔に近い。後ろの足音が録れていたのではないかと思い、私は高橋さんに画面を見せた。
「こんなにそろっていなかった」
高橋さんが覚えていたのは、自分が早足になると、後ろの人も少し遅れて速くなることだった。画面の小さな波はほぼ同じ間隔のままで、その変化には対応していなかった。電話が揺れたり衣服に当たったりしても、歩く間隔に合わせた音は入る。私は小さな波を高橋さんが聞いた足音として説明するのをやめた。
1月14日、高橋さんは近所の知人、田中文孝さん(69歳)と同じ坂を歩いた。1人で聞いたのなら気のせいかもしれない、と高橋さんが自分から誘ったという。今度は2人とも、後ろから足音が聞こえたと話した。この日の録音には、11日に見つけた小さな波の並びがなかった。
私は1人ずつ話を聞き、その朝、坂のどこでどう動いたかを尋ねた。
坂の途中には、側溝の一部を格子状の金属の蓋で覆った区間がある。高橋さんは何度か蓋の端を踏み、縁がわずかに動いて鳴る音を聞いていた。
田中さんは、その区間で右へ寄った。背後から来る人に道を空けるつもりだったという。高橋さんに何か聞こえると言われてから寄ったのかと尋ねると、そう言われた覚えはないと答えた。
高橋さんは、隣を歩いていた田中さんが道の端へ寄るのを見て、自分だけに足音が聞こえていたのではないと思ったという。高橋さんも田中さんの横に寄り、2人は蓋の脇の舗装に立ち止まった。
2人が振り返っても、下っていく道に人の姿はなかった。足音は近づき続け、田中さんは側溝の方で金属音を聞いた。蓋へ目を向けると、後ろにある1枚の縁が小さく浮いて落ち、間を置いて隣の蓋も鳴った。
鳴る場所は坂の下から上へ移り、2人のすぐ横の蓋まで来た。高橋さんも、その蓋の縁が動くところを見ていた。蓋の上には靴も足もなかった。
その間、2人とも舗装の上で足を止めていた。さらに上の蓋が鳴ったあと、ぬれた路面を踏む音が坂の上へ遠ざかっていった。その先にも人の姿は見えなかったという。
「蓋が順番に鳴るのは、人が歩いていくときの鳴り方と同じでした。間の取り方まで、普通の人の歩き方でした」と田中さんは言った。
田中さんもこの道を何十年も歩いているが、足音だけが付いてきたのは初めてだという。高橋さんの話を聞いたときは、年のせいで耳が遠くなったのだろうと思っていた。「誘われたのは、高橋さんの耳を確かめるためだと思っていました」
1月16日と17日の朝、私も録音しながら坂を上った。高橋さんが立ち止まった場所で待っても、足音は聞こえなかった。側溝には蓋のない区間もあり、斜面から落ちる水の音がする。高橋さんにもその音を聞いてもらったが、本人が覚えている足音とは違うと答えた。
17日には、高橋さんに先を歩いてもらい、私が10メートルほど後ろを付いていった。蓋の区間で高橋さんが立ち止まると、私も止まる。高橋さんは、間の空け方はあのときとよく似ていると言った。ただ、振り向けば私が見える。坂の片側は岩の斜面、反対側は木の茂った谷で、人が身を隠しながら付いてこられる場所はなかった。

蓋の区間では、私も1枚ずつ蓋の端を踏んでみた。縁が少し浮いている蓋は3枚あり、踏むと鈍い金属音がした。足を離しても、ひとりでに鳴ることはない。風が強まった時間にも、蓋は動かなかった。
蓋のことを県の土木事務所に伝えると、担当者は、タヌキやイタチが側溝を走って蓋を下から押したのではないかと言った。格子の隙間からのぞくと、溝の底には10センチほどの深さで水が流れていた。泥の上に動物の足跡は見えず、糞も落ちていない。仮に小さな動物が蓋を押し上げたとしても、蓋の区間を過ぎた先の舗装で、路面を踏む音が続いた説明にはならない。
その土木事務所で、見回りの記録も見せてもらった。見回りの車は、走った距離を区間ごとに記録している。2017年までは、運転した職員が車の距離計を読んで紙の日誌に書き込んでいた。今は車に付けた記録機が、衛星で測った位置から、走った道筋と距離を自動で残す。
紙の日誌には、峠の前後の距離が、通常より約300メートル短く書かれた日がいくつかあった。欄外に「計器?」と書き添えた日もある。書き込みは1990年代から十数日分あり、どれも朝の見回りだった。担当部署は、距離計の誤差として扱ってきたという。ところが、記録機に替えてからも、同じ区間が約300メートル短く記録された日がある。記録機の地図の上では、坂の途中で車の位置が先へ飛んでいた。
飛んでいるのは、坂の下から側溝の蓋の区間を抜けるまでの道のりだった。担当者は、電波が山に遮られる場所だから、と説明した。それなら、紙の時代に職員が読んだ距離計まで同じ区間で短くなる理由にはならない。記録機で短くなった日は、2018年から2020年までに5日あった。紙の日誌と記録機のどちらで見ても、高橋さんが足音を聞いた日とは重ならなかった。担当者は、蓋の区間にはまた見回りのときに目を配ると言った。
高橋さんは、いまも散歩を続けている。田中さんと行く日は横に並ばず、前後に1人分ほどの間を空けて歩くようになった。
後ろの人が追い越せるように、道を空けているのかと思って尋ねた。高橋さんは違うと言った。田中さんの足音がどこから聞こえるか、分かるようにしているのだという。
坂の蓋の区間に差しかかると、高橋さんは振り返らずに「田中さん」と呼ぶ。後ろで返事があるのを聞いてから、次の1枚の横を通る。



