小さなアパートの大家の通帳には、出ていった住人の名前で、家賃と同じ額が振り込まれ続けることがある。
北都県柳瀬市の若葉荘は、木造2階建て、8室のアパートである。大家の中村和実さんは、家賃を銀行振込で受け取っている。住人が毎月決まった日に自分の口座から送り、中村さんは通帳を記帳して、誰の分が入ったかを確かめる。退去すれば、その人の名前は通帳に出なくなる。
201号室の鍵は、2016年3月に返されている。住んでいたのはニシカワさんという男性で、仕事の都合で引っ越すと告げて退去した。敷金も精算してあり、中村さんの手元にはその控えがある。それでも翌月から、ニシカワさんの名義で毎月3万2千円が振り込まれた。中村さんはそれを一度も家賃として使わず、2021年5月までの62回分を残している。
退去後の入金が始まったのは2016年4月27日だった。金額は住んでいたときの家賃と同じで、振込人の欄は「ニシカワ タダシ」。中村さんは、毎月決まった額を送る設定を止め忘れたのだろうと考え、以前の電話番号へかけた。電話はつながらず、転居先も分からなかった。
「止め忘れなら、気づけばすぐ止まると思っていました。1年たっても止まらないので、ニシカワさんの口座のお金が減っていくのが心配になったんです」
私は2021年6月5日の土曜日に通帳を見せてもらった。入金日は各月の27日付近に並ぶ。27日が土日の月は、直前の金曜日に入っていた。名前と金額だけでなく、月ごとの送り方もそろっている。
間違って届いた振込を返すには、受け取った側が自分で送り返すのではなく、銀行を通じて送り手の口座へ戻す手続きを取るのが普通だという。中村さんは取引先の銀行に、相手を調べて金を返したいと相談した。通帳にその名があっても、ニシカワさん本人がいま送金を操作しているとは限らない、と窓口で説明された。名前の表示だけでは、どの口座へ返せばよいかは決まらなかった。
銀行が照会した送り手側の支店は、「北都信用金庫 本町支店」となっていた。本町支店は2014年に閉じ、別の支店に統合されている。古い支店名が残っているだけなら、統合先で元の口座を探せるかもしれない。中村さんは、統合先の支店にも調べてもらうよう頼んだ。
通帳には振込人の名前しか出ないが、銀行に頼めば、入金ごとの明細を出してもらえる。そこには、送り手が使った金融機関と支店の名が載る。中村さんが本町支店の名を知ったのも、この明細からだった。
私が読んだ照会書には、入金ごとに付いた番号が記されていた。同じ名前の人を探すだけでなく、どの送金なのかを番号で指定して問い合わせている。中村さんの銀行には、その番号の金を受け入れた記録がある。ところが統合先の支店には、対応する送金が見つからなかった。返金の依頼への回答は「該当する口座がない」だった。
中村さんの銀行の担当者は、私の取材にこう説明した。「受け入れた記録はこちらにあります。送り手側に記録がないというのは、普通はありません。手続きの途中で番号が書き換わったのかと思い、何度か確かめましたが、番号はどれも合っていました」
通帳の数字が間違っていたとして、取り消されたわけでもない。中村さんの口座には3万2千円が入り、送り返す先の口座が分からないままになっていた。1回分を照会しているあいだにも次の入金があり、中村さんは新しい分を書き足して相談を続けた。送り手から、金を返してほしいという連絡が来たことはない。
ニシカワさんの退去後、201号室は2017年から2020年まで別の人が借りていた。その人が家賃を払っている月にも、ニシカワ名義の入金は続いた。中村さんは通帳とは別のノートを作り、後の住人の支払いを「家賃」、ニシカワ名義の金を「預かり」と分けて記した。ノートの「家賃」の欄は2020年11月で終わり、「預かり」の欄だけが今も続いている。
預かりの欄には、入金日と金額のほかに、照会した日と回答の日も書いてある。回答の欄には、同じ「該当なし」が並ぶ。初めの1年は、そのたびに銀行へ足を運んだ。今は、半年分をまとめて照会している。
二重に家賃を受け取ったことにはしたくない。中村さんはそう話し、預かり分を生活費に使わず、別の口座へ移していた。3万2千円を62回で、198万4千円になる。中村さんは、この総額を覚えてしまったことが嫌だと言った。普段は忘れていても、記帳するとニシカワさんから何かを頼まれている気がするという。
後の住人には、入金のことを話していなかった。私は中村さんを通じて電話で話を聞いた。住んでいた間、部屋で変わったことはなかったという。郵便受けにニシカワさん宛ての手紙が入ったこともない。月末の家賃は自分の口座から25日に送っていた。
一度、中村さんは自分が退去の手続きを取り違えたのではないかと思い、契約書を出して見直した。ニシカワさんが入居したのは2015年で、初月の家賃は手渡しだった。その受取証と一緒に残っていた連絡用紙の、家賃を振り込む口座の欄に、本町支店の名が書かれていた。
本町支店が閉じた翌年に入居し、そのときから閉じた支店の名を書いていたことになる。当時は勤め先の振込口座だと聞き、古い用紙を使ったのだろうと気にしなかったという。今回の入金に限って、銀行が昔の支店名を表示しているわけではなかった。ニシカワさんは住み始めたときから、閉じた支店の口座で家賃を払うつもりだったことになる。
連絡用紙の字は、細いボールペンで几帳面に書かれていた。勤め先の欄は空いている。中村さんは、2015年にこの紙を受け取ったとき、空欄のことを尋ねなかった。家賃が毎月きちんと入れば、それでよかったからだ。
中村さんが覚えているニシカワさんは、物静かな人だった。朝は早く出て、夜は遅く帰る。階段で会うと会釈をし、ごみの日を間違えたことは一度もない。どんな仕事をしているのかを尋ねたことはなく、本人から話すこともなかったという。
「住んでいた1年は、一日も遅れずに入っていました。出ていってからも、遅れたことはありません。それで困っているんです」
後の住人は2020年12月に退去し、いまの201号室は空いている。私が見た日は畳が替えられ、押し入れも空だった。
1階の集合郵便受けの201号室の名札も外され、白い枠だけが残っていた。名札を外したのは後の住人が出ていった日で、ニシカワさんの名札は、2016年に中村さんが自分で外している。中村さんは次の入居者を募っており、部屋を見に来た人に、この入金の話はしていない。
入金が続いた3年間も、別の人が何事もなく暮らせた。だから貸せる部屋だと考えている。逆に、ニシカワさんが家賃を払っているから貸せないという扱いにすれば、自分がその金を家賃として受け取ったことになる。中村さんは「預かり」の欄を指しながら、そう説明した。

銀行に送る照会書には、すでに退去した人からの入金だと、その都度書いている。返事が来る封筒の用件は、いつも「家賃振込の件」になっていた。封筒は照会のたびに1通ずつ増え、中村さんは輪ゴムで束ねて、通帳と一緒に引き出しにしまっている。家賃の振込ではないと何度書いても、用件の欄は変わらない。
帰り際、中村さんは新しい入居希望者に渡す201号室の鍵を、引き出しから出して机に置いた。それからノートを開き、「預かり」の欄の最後の行の下に、「6月」とだけ書いてペンを置いた。



