三ツ森町の水田の足跡に関する奇妙な記録

情報提供者撮影。代かき済みの水田の中央部分に、途中で途切れる裸足の足跡と、平行な田植え機の車輪跡が見える。

地方の行方不明の届け出の記録には、本人が保護された場所は残っても、そこまでどう移動したのかが抜け落ちていることがある。

2021年5月20日の未明、三ツ森町下地区で、86歳の伊藤清宣さん(仮名)が自宅からいなくなった。家族は3時ごろ、玄関の鍵が開いているのに気づいた。近所を探しても見つからず、4時に警察へ届けた。警察と消防団が清宣さんのいる場所に着いたのは、5時半ごろだった。自宅から約200メートル離れた水田の、南側のあぜである。

保護された場所だけを聞くと、清宣さんが田を北から南へ横切ってきたように受け取れる。娘の美津江さん(仮名、58歳)は、そうではないと私に念を押した。父は田の中ほどで動けなくなっていた。南のあぜまでは、別の人が運んだのだという。

清宣さん本人は、帰宅した後に美津江さんへこう話していた。北のあぜから南へ続く道を見つけ、そこを歩こうとして田へ入った。「田んぼの真ん中に、昔の道があった」

田の持ち主は、田中良津子さん(仮名、71歳)である。田植えの前には、田に水を張り、土を細かく砕いて平らにならす。代かきと呼ばれる作業だ。ならした直後の田は、表面がなめらかな泥になる。人や鳥が入れば、その跡がそのまま残る。

田中さんは、清宣さんが家を出る前日の19日に、この田の代かきを済ませていた。翌朝、平らな泥に裸足の跡が並んでいるのを見つけ、一つずつ数えたという。跡は北のあぜから田の中央付近まで続き、そこで終わっていた。31歩分あった。田中さんは田植えを遅らせ、跡をそのまま残してくれていた。

5月22日、私は美津江さんと一緒にこの田を訪ねた。足跡は北のあぜの際から始まり、ほぼまっすぐ南へ向かっている。戻ってくる向きの跡はない。最後の足跡の横では泥が大きく乱れ、そこから南のあぜまでの約20メートルには、裸足の跡も長靴の跡もなかった。

足跡の脇には、平行な2本の溝が通っていた。北のあぜの出入口から足跡の終わりまで延び、そこで向きを変えて出入口へ戻っている。田中さんが救助の後に撮った写真にも、同じ溝が写っていた。

南のあぜまで歩いたのなら、その先にも跡が残るはずだ。誰かが抱えて歩いたのなら、その人の足跡が残る。溝を付けたのが何なのかを知るため、私は翌23日、清宣さんを見つけた山本基宣さん(仮名、66歳)を訪ねた。

山本さんはその朝、田の様子を見に家を出たところで、田の中にしゃがんでいる人影に気づいた。呼びかけると返事はあったが、自力で立てない様子だった。山本さんは119番へ通報し、田中さんにも電話で助けを求めた。それから、近くに置いていた田植え機に乗り、北の出入口から田へ入った。

田植え機は、田の中を車輪で進みながら苗を植えていく機械である。泥の中でも進めるように作られている。溝の正体は、この車輪の跡だった。山本さんは清宣さんのすぐ横まで進み、そこで止めた。清宣さんの両足は、すねの半ばまで泥に沈んでいた。

ここから先の話は、山本さんと田中さんの証言による。

山本さんによれば、清宣さんの足の間から南のあぜまで、灰色と白の小石を敷いた道が見えていた。山本さんは清宣さんを支えようと機械から降り、その乾いて見える所へ右足を置いた。長靴は砂利を押しのけず、そのまま路面を通り抜け、下の泥へ沈んでいったという。

「石を踏んだ感じが一度もなかった。泥に足を取られているのに、見下ろすと、すねの途中まで道があるんです」

田中さんは、電話で呼ばれて北のあぜへ来たところだった。そこから、清宣さんのそばを起点に南へ延びる砂利道が見えたという。

「水を入れた田んぼなのに、そこだけ乾いて見えたんです。山本さんが降りたら、長靴が道の中へ入っていった」

田中さんはあぜにいたため、山本さんの足元を真上からは見ていない。横からは、砂利の路面に山本さんのすねが突き刺さったように見えた。山本さんが足を抜くと長靴には泥が付き、その下には穴もくぼみもない砂利道が続いていた、と話した。

清宣さんは道の先を指して「あっちへ出られる」と言った。山本さんはそれ以上歩かせず、清宣さんを機械へ引き上げた。苗を置く台に毛布を敷き、そこに座らせた。人を乗せるための場所ではない。「とにかく泥から出そうと思った」と山本さんは話した。

機械の向きを変えた後、道は見えなくなっていた。山本さんが南を見たとき、目の前には水を張った田だけが広がっていたという。

山本さんは北の出入口へ戻り、清宣さんを軽トラックの助手席へ移した。南側は救急車が入れる農道に面している。車で田の外を回って南のあぜへ連れていき、美津江さんにも電話を入れた。捜索していた警察と消防団も南側へ集まった。保護の場所が南のあぜと記録されたのは、このためである。

清宣さんはパジャマ姿ではだしだった。ひざの下には泥が付き、体が冷えていた。救急車で病院へ運ばれ、大きなけがはなく、その日のうちに帰宅した。

山本さんは納屋で、清宣さんを運ぶときに使った毛布を見せてくれた。灰色がかった薄茶色で、乾いた泥が付き、端が毛羽立っていた。作業台へ置いてもらい、私が撮影した。

霧島秀一撮影。農機具のある納屋の木の台に、薄茶色の毛布が畳まれている。中央に乾いた泥が付き、端が毛羽立っている。後ろには泥の付いた農業機械の車輪が見える。
霧島秀一撮影。2021年5月23日、山本さんの納屋で見せてもらった毛布。清宣さんを田から出す際に使ったと山本さんが説明した物で、表面に泥が残っていた。

車輪の溝は、山本さんが話した往復の道筋と合っていた。31歩の先に裸足の跡がないのは、そこで清宣さんが機械に乗せられたためだ。最後の足跡の横の乱れは、山本さんが降りて足を取られた跡と考えれば説明がつく。南のあぜまでの移動も、山本さんの車で説明できる。

私が現地で見たのは救助から2日後の泥と足跡で、砂利道は見ていない。田中さんの写真にも道は写っていなかった。田中さんは前日に同じ場所をならしており、山本さんも、ここに通り道がないことを知っていた。

取材に同席していた美津江さんは、山本さんに1枚の紙を渡した。父に渡すために、自宅の周りの道を描いた地図である。田に入らずに帰れる道を示し、父と確かめるつもりだった。22日に私も見せてもらっていた紙で、田の北と南を回る農道が太く描かれている。美津江さんは、父を見つけた位置と、そこからどちらへ道が見えていたのかを描いてほしいと頼んだ。山本さんは田の中央を指で押さえ、南のあぜへ向けて鉛筆で線を引いた。

残っていたのは、清宣さんがなぜ3時前に家を出て、北のあぜから田へ入ったのかである。美津江さんによれば、父は最近、夜中に目を覚ますことが増えていた。ただ、外へ出たのはこの夜が初めてだった。

26日、私は町の土地改良区の事務所で、古い資料を見せてもらった。土地改良区は、田の用水や農道を管理する農家の組織である。下地区の田は1974年に区画を大きな四角へ造り直しており、その前の地図が残っていた。

工事前の地図では、今の田中さんの田に当たる場所を、細い道が北の農道から南東へ斜めに横切っていた。道の先には、用水を田へ引き入れる取水口がある。古い図と今の田は縮尺も形も違い、重ねただけでは、この道が山本さんの鉛筆の線と同じ所を通っていたとは言えない。どちらも、田の北から南へ向かう道ではあった。

同じ棚に、1958年の「水番表」がつづられていた。水番は、田に水を入れる時期、農家が交代で夜の用水を見回り、水門を開け閉めして各田へ水を配る当番である。5月下旬の欄に、清宣さんの名前があった。当時23歳。担当の欄には「午前三時 取水口」と書かれていた。

工事の後、用水は管で各田へ配られるようになり、夜の水番はなくなった。それでも、田に水が入るのは毎年同じ5月である。清宣さんが家を出た前日、田中さんの田にちょうど水が張られていた。31歩の足跡は、迷って歩いた跡ではなかったのかもしれない。60年以上前に通った道の入口から、当番だった時刻のころに、取水口へ向かった跡とも読める。

美津江さんにこの話をすると、少し黙ってから、父は若いころ夜中に田を見回っていたと聞いたことがある、と言った。そこに昔の道があったのかを確かめるために、父を現地へ連れていくつもりはないという。田中さんは写真を残し、田植えを始めることにしていた。

その夕方、美津江さんは地図を広げ直した。山本さんの線は消さず、脇に「道が見えても、ここへは入らないで」と書いた。地図の南の端には取水口の位置を書き入れ、「水番はもうありません」と添えた。自宅へ帰る道を太くなぞってから、父に渡すために紙を折り畳んだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です