スマートフォンで撮った写真には、撮った場所が自動で書き込まれる。その位置が、撮影者が一度も立ったことのない場所を指し続けることがある。
柳瀬市に住む石川由美さん(44歳)は、2021年9月4日の土曜日、鳴沢岳に登った。登山口から山頂まで、道沿いの花や道標、景色をスマートフォンで撮った。同じ端末では、歩いた道と時刻、高さを残す登山記録のアプリも動かしていた。
翌週、石川さんは次の登山で同じ花を探そうと、写真を地図に並べる画面を開いた。表示されたのは山の中ではなかった。登山口から北へ約8キロ離れた、柳瀬ダム湖の水面の上だった。その日に撮った47枚が、すべて湖の中ほどに集まっていた。
石川さんが直したかったのは、花の写真そのものではない。後で見返したときに、どこで撮ったかが分かるようにするための場所の情報だった。
石川さんから見せてもらった1枚を載せる。登山道脇の花で、足元の石や道の縁も写っている。ただ、似たような場所は山の途中にいくつもある。地図の位置を頼りに探すつもりだったという。
「花の名前は分からなくてもいいんです。場所さえ分かれば、来年の同じころにまた見に行けますから。去年までは、撮った後で場所が分からなくなるのが悔しくて、それで位置の記録を残すようにしたんです」

スマートフォンは、上空の衛星から届く電波で自分の位置を計算し、写真を撮るたびに、その時点の位置を写真の中へ書き込む。電波が届きにくい谷や森では、位置がずれたり、少し前の位置がそのまま使われたりすることがある。ただ、ずれるとしても、普通は実際にいた場所の周りに散らばる。8キロも離れた湖に、まとまって移ることは考えにくい。
私は石川さんの許可を得て、編集していない元の画像と、登山アプリから書き出した記録を確かめた。写真はほかの人から送られた物でも、画面を撮った画像でもない。撮影時刻の順に並べると、登山口から山頂までの写真になっている。下山の途中で撮った写真は、47枚に含まれていなかった。石川さんによると、山頂で雲が出てきたので、帰りは撮らずに急いだという。
アプリの記録を地図に重ねると、線は登山道に沿って山頂へ続く。湖へ寄った跡はない。写真とアプリは同じ端末の同じ位置の計算を使っているはずなのに、アプリの線だけが山の中にあり、写真の位置だけが湖へ移っていた。
最初に考えたのは、位置の取得に失敗して、どこか以前の位置を何度も書き込んだのではないかということだった。ところが地図を拡大し、写真ごとの位置の数字を比べると、47枚は1か所に重なっていなかった。湖全体を見る地図では1点に見えていたが、狭い範囲の中を少しずつ動いている。撮影順に点を結ぶと、湖の中を回り込み、最後はほぼ最初の場所へ戻っていた。
次に、登山の道筋をそのまま北へずらした形ではないかと考えた。私は二つの道筋を印刷して、進む向きと曲がる場所を比べた。8キロ動かしただけでは重ならなかった。山では登山口から山頂へ片道を進んでいた時間に、写真の点の並びは1周していた。
違う日の位置が混ざった可能性も残る。しかし撮影時刻は登山記録とおおむね合っていた。山頂の写真を撮った時刻には、アプリでも山頂付近に着いている。時刻だけは、その日の登山と対応していた。
石川さんは携帯電話の店で端末の点検も受けたが、異常は見つからなかったという。写真の位置情報そのものを詳しく調べた検査ではない。写真の位置は後から書き換えることもできる。ただ、石川さんはそうした操作をしたことがなく、書き換えるとしても、湖の底の道に沿う位置を47枚に一つずつ付ける理由がない。
柳瀬ダムは1971年に完成し、湖の底には堰下という集落が沈んでいる。点の集まる場所について郷土資料館へ尋ねると、職員は堰下の分校があった辺りだと教えてくれた。私は1960年代の地図を見せてもらい、谷の形を手掛かりに、今の地形図と位置を合わせた。写真の最初と最後の点は、分校の辺りに入った。その間の点は、集落を通る道に沿うように見える。ただ、古い地図は精度が低く、重ねるときの誤差もある。特定の家や教室を指していると言えるほどの比較ではなかった。
9月18日、私は湖の岸へ行った。分校があった辺りは水の下で、地図の点へ近づいて確かめることはできない。岸の近くには、沈んだ木の先が水面から出ていた。
資料館の職員は、堰下の分校に通っていた人を紹介してくれた。今は南條市に住む野尻澄子さん(63歳)である。1969年の秋、小学5年生のときに家族で集落を出るまで、分校に通っていた。
点を結んだ地図を見せると、野尻さんはしばらく黙って、それから「山登りの道だ」と言った。
「堰下の子は、鳴沢岳に行けなかったんです。バスもないし、遠すぎる。それで先生が、毎年9月の初めの土曜日に、集落の中で山登りをさせてくれました。学校を出て、道の曲がり角や橋に『一合目』『三合目』と名前を付けて、そこで休んで絵を描く。ぐるっと回って学校へ戻ってくると、先生が校庭で『山頂です』と言うんです」
先生は名簿を挟んだ板を持って列の後ろを歩き、子どもが各合目に着くたびに、名前の横へ鉛筆で印を付けたという。全員の印がそろうと、次の合目へ進む。「本当の山なら、はぐれたら大変だから、と言っていました。集落の中で迷う子なんていないのに」と野尻さんは笑った。
野尻さんは、そのときの写生帳を持ってきていた。最初のページに、先生が配った手書きの地図が貼ってある。分校から出た線が集落の道を回り、また分校へ戻る。線の途中に、鳴沢岳の登山道と同じ地名が順に書き込まれていた。
私はこの地図を、写真の点を結んだ図と並べた。道の形は古い地図との重ね合わせなので、細かい位置までは比べられない。比べられるのは順番だった。石川さんの写真には、途中の道標を撮った物が何枚か含まれている。石川さんが「五合目」の道標を撮った写真の点は、手書きの地図で「五合目」と書かれた橋の近くにあった。山頂の写真の点は、校庭の辺りにあった。野尻さんの写生帳の五合目のページには、橋の欄干と川原の石が描かれている。
石川さんが登った9月4日も、9月の最初の土曜日だった。石川さんは分校のことも、集落の山登りのことも知らなかった。写生帳の地図を撮った写真を見せると、「私の写真が、この子たちの道を歩いていたみたい」と言い、しばらくその写真から目を離さなかった。
先生の地図と名簿は、決まった地点に着くたびに印を一つずつ増やしていく紙の記録だった。石川さんのスマートフォンも、撮るたびに位置を一つずつ写真へ書き込んでいく。50年以上離れた紙と機械の記録が、湖の底の同じ橋に「五合目」を、同じ校庭に「山頂」を置いている。先生はすでに亡くなっていて、地名をどう決めたのかは聞けない。野尻さんが覚えているのは、最後の子が校庭に入るのを見届けてから、先生が名簿のいちばん下に「山頂」と書いていたことだった。
石川さんは元の画像を変えずに残し、花を探すために使う写しへ、登山記録から分かる場所を付け直した。その作業では、山頂の写真を最後に回したという。
9月21日に訪ねると、石川さんは47枚を紙に焼き、裏に鉛筆で場所を書いていた。「五合目」「九合目」と順に書き、最後の1枚に「山頂」と書いた。そこで手を止め、その1枚だけは封筒に入れずに、机の端へ置いた。



