浅間沢村の道路標識に関する奇妙な記録

漁師の男性撮影。漁網に絡まった、さびだらけの四角い金属の板。フジツボと海藻が付いている。

地方の漁港の倉庫には、網に掛かった持ち主の分からない物に、拾った場所と返す先の札を付けて置いておく棚があることがある。

北都県戸鳴町の戸鳴漁港では、漁の途中で網に掛かった物を、漁協の倉庫で預かる。財布や携帯電話のような落とし物なら警察へ届ける。古い浮きや流木、看板の切れ端のように、届け先のはっきりしない物は倉庫の棚に置き、心当たりのある人や役所に連絡する。どの物にも、見つけた日と場所を書いた札を針金で結ぶ。

2021年9月22日の朝、戸鳴漁港の漁師、前田和弘さん(61歳)が揚げた網に、古い道路標識が掛かっていた。場所は港から沖へ約5キロ、水深は約40メートル。四角い鉄板に、フジツボや海藻が付いていた。

前田さんは港へ持ち帰り、網から外す前にスマートフォンで写真を撮った。網の傷んだ箇所を、漁協の職員に相談するためだった。

「網を直すには、どこがどう破れたか見せないといけません。板を外すのはその後です。外してみたら『浅間沢村』と読めた。山の村の名前が、なんで沖から出てくるのかと思いました」

板は漁協の倉庫で預かることになり、職員が「発見場所 戸鳴沖 9月22日」と書いた札を付けた。

連絡を受け、私は9月26日に倉庫へ行った。板は縦が約50センチ、横が約90センチ。表面の大半はさびていたが、右側の村名は近くで読むことができた。左側にも文字らしい線が残っていた。板の裏には、支柱に留めるための金具が付いていた。右側の金具は途中でちぎれ、半分だけ残っていた。

浅間沢村は1955年の合併でなくなり、今は深海市の山あいの地区になっている。港からは約60キロ離れ、地区を流れる川も戸鳴沖へは注がない。とはいえ、廃材を車で運び、船から捨てることはできる。私は初め、古い標識を誰が片付けたのかを調べれば、元の場所が分かると思っていた。

深海市で道路を管理する担当者に問い合わせると、合併の後に村境の標識を取り替えたことは分かった。ただ、外した板をどこへ持っていったかは、残る資料に書かれていなかった。

板を洗えば読みやすくなるかもしれないが、古い塗膜まで落とすと手掛かりが減る。私は汚れを残したまま、左側を斜めから照らした。「この先」という字の形が見えた。

全文は「この先 浅間沢村」と読めそうだった。村の中にいることを示す標識なら、「この先」は要らない。村へ向かう道の途中に立てる案内だったことになる。担当者に写真を送ると、村境を探すより、村へ向かう道の分かれ目を調べた方がよいと教えられた。

担当者を通じて、浅間沢で長く暮らす岡田清文さん(78歳)に話を聞いた。岡田さんは、昔、坂の分かれ道にその文面の板があったと覚えていた。

「旧道を上がって、新しい道と分かれる所です。子どものころから、あの板の前で右へ曲がると村だと教わりました。字はもうほとんど読めなくなっていましたけどね」

翌27日、岡田さんに旧道へ案内してもらうと、草の伸びた道端に、板のない支柱が2本立っていた。支柱の間隔を測ると、港の板に残る取り付け穴の間隔とほぼ同じだった。ただ、同じ規格の標識なら、別の板にも当てはまる。私が確かめたかったのは、右の支柱に残った、途中で裂けている金具だった。

港の板の金具も、山の支柱の金具も、端は直線に切られていなかった。細く伸びた所や、不ぞろいに欠けた所がある。私は支柱側を撮り、前日に撮った板の裏の写真と同じ大きさにして並べた。形がよく合って見えたため、市と漁協に、現物でも確かめたいと伝えた。

了解を得て支柱側の金具を外し、9月28日、倉庫で板側の端へ合わせた。細い突起が反対側のくぼみに収まり、金具の幅もそろった。表面に残る灰色の塗装の筋もつながった。私は、元は1本だった金具が裂けた物だと判断した。

霧島秀一撮影。さびた標識の裏に残る金具と、別に外した金具を木の台で合わせた接写。中央に不規則な裂け目があり、両側の幅と灰色の塗装の筋がつながっている。
霧島秀一撮影。2021年9月28日、漁協の倉庫で合わせた金具。写真右は港の標識に付いた部分、左は浅間沢の旧道の支柱から外した部分。中央の裂け目の形と塗装を比べた。

これで、山から運ばれた標識という考えは強くなった。ところが、板がいつなくなったかを尋ねると、岡田さんは「24日には、まだ付いていました」と答えた。

港で揚がったのは22日だと伝えると、岡田さんは鞄から手帳を出した。24日の欄には、鉛筆で「旧道 市の立会 分かれ道 標識の下 幅を測る」とあった。市に頼まれた旧道の現況確認に立ち会った日だった。通路の幅や傷んだ箇所を調べるために歩き、あの標識の下へ道具を置いたという。

「板の下に物差しの棒を立てて、職員さんが写真を撮りました。板があったから、そこを目印にしたんです。なかったら覚えていません」

岡田さんの記憶と手帳だけなら、日付を書き違えた可能性もある。私は市の担当者に確かめた。現況確認は予定どおり9月24日に行われていた。同行した職員は、標識の真下に測量用の棒を当てたことを覚えていた。

作業中に撮った写真も残っていた。写真のデータには、撮影した日時として24日の午前が記録されている。カメラの時計がずれていた可能性も考えたが、同じ日に撮った別の写真には、その日に補修した柵の新しい杭が写っていた。補修の日付は工事の書類で24日と確かめられた。

写真では、標識の右の金具が裂けずに支柱と板をつないでいる。板の角の曲がり方や、塗膜が大きく落ちた箇所も、港にある板と同じだった。

次に、前田さんの方が見つけた日を間違えていないかを確かめた。22日の港の写真は、その日の漁の後、網の修理の相談として漁協の職員へ送ったものだという。職員の携帯電話には、22日の昼前に届いた写真が残っていた。網の破れた所の横に板が写り、板の裏の金具はすでにちぎれていた。

職員によれば、板は22日に網から外して倉庫へ入れ、以後、私が見に来るまで持ち出した人はいない。倉庫には鍵があり、鍵を持つのは職員3人だけだった。24日に旧道の作業へ貸し出したという話もなかった。

同じ文面の標識が2枚あった可能性も考えた。岡田さんは、分かれ道の板は昔から1枚だけだったと言う。市の担当者が道路の付属物をまとめた台帳を調べても、旧道の分かれ道に記されている案内標識は1基だけで、その標識を取り替えた記録もなかった。仮に2枚あったとしても、裂けた金具の片方ずつが別々の板に付いていることにはならない。

港の板と山の板が似ているだけなら、別々の標識を比べているのかもしれない。だが、二つの金具は裂けた端の形まで合っている。22日には板側の金具がちぎれた状態で港にあった。その2日後の写真では、同じ金具が山の支柱に裂けずにつながっていた。

港の側には、前田さんの写真と職員の受信記録がある。山の側には、岡田さんの手帳と市の写真と工事の書類がある。どちらも、ほかの用事のために残された記録で、標識のことを確かめるために作られたものではない。

フジツボや海藻から、板が海にあった年数を私は決められない。1955年に外された板だという当初の見込みも、確かめられなかった。

漁協は市へ引き取りを相談する際、22日に港で撮った写真と、24日に山で撮った写真の両方を添えた。市の担当者は、24日の現況確認の資料から標識だけを除くつもりはないと話した。その日に、目の前の板の下で測ったのだからという。

岡田さんは、引き取りの相談がまとまるまで、旧道の支柱にはしばらく何も付けないでほしいと市に頼んだ。分かれ道の目印がなくなっても、道は覚えているという。

倉庫の板には、職員が2枚目の札を結んだ。1枚目には「発見場所 戸鳴沖 9月22日」とある。2枚目には「引き取り先 深海市浅間沢 分かれ道」と書かれ、その下に、前田さんと岡田さんの電話番号が並べて控えてあった。

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