柳瀬市郷土資料館の木彫り人形に関する奇妙な記録

霧島秀一撮影。資料館のガラスケースの中に、古い壺や農具と並んで、素朴な木彫りの人形が立っている。

地方の郷土資料館には、決めた展示ケースに置いても、朝になると別のケースで見つかる収蔵品があることがある。

北都県柳瀬市の柳瀬市郷土資料館は、市内の農具や生活用品を集めた小さな館だ。展示室には番号の付いたガラスケースが並び、3番には農具や籠、7番には1971年に柳瀬ダムの底に沈んだ堰下集落の写真や、分校の看板が展示されている。3番の棚には、高さ30センチほどの木彫りの人形が1体ある。説明札には「堰下集落の家に伝わったもの」とだけ書かれている。

職員の小野久美江さん(46歳)は、毎朝の開館前、展示室へ入る前に手袋を用意する。2022年5月7日の土曜日、開館の20分前に、私は小野さんと一緒に3番のケースを見た。前日の閉館時に撮った写真では、人形は棚の中央に立っていた。今朝のケースでは、その場所だけが空いていた。

小野さんはそのまま7番のケースへ歩いた。そこに人形が、堰下分校の校舎写真に顔を向けて立っていた。小野さんは鍵を開けて持ち上げ、3番へ戻した。

「最初に見つけたときは、自分が置き間違えたのかと思いました。でも、次の朝も、その次の朝も7番にいたんです」

館が改修を終えて再開した2020年夏から、人形は7番で見つかるようになった。小野さんは閉館時に3番を撮影し、翌朝7番にあれば、戻した日をノートへ書いた。この日の取材までに、戻した回数は100回を超えていた。

2020年より前に、人形が動いたという記録はない。改修のとき、7番の展示は大きく入れ替えられた。それまで7番には集落の地図と民具が並び、分校の校舎写真は収蔵庫の箱の中にあった。写真を引き伸ばして7番の奥に掛けたのは、再開に合わせてのことだったという。

まず疑われたのは、職員の誰かが展示を動かしている可能性だった。ケースの鍵は事務室の金庫にあり、仕事で必要な職員は取り出せる。館長は展示替えの指示を出していないことを確かめ、鍵を持ち帰らないよう職員に伝えた。ガラスや背面の継ぎ目も調べたが、人形を通せる隙間は見つからなかった。

夜間の資料館は、警備会社の機械警備に切り替わる。展示室には人の動きを感じ取るセンサーがあり、反応すると記録が残り、警備員が駆けつける。小野さんが見せてくれた警備会社の月ごとの報告では、人形が7番で見つかった夜にも、展示室での反応は一度もなかった。朝は両方のケースが施錠され、前の晩の写真には3番の人形が写っていた。

ただ、これは夜間に誰も鍵を使わなかったことを示す資料ではない。センサーが拾えない動きもある。私が見たのも、7番に置かれた人形を小野さんが戻すところで、移動する途中ではなかった。

それでも、7番にある方がよいのではないかと私は尋ねた。毎回同じ所で見つかるなら、そのまま展示してはどうか。小野さんは、2021年にそれを試したと答え、ノートに挟んでいた写真を見せてくれた。

人形を7番で見つけた日に、小野さんは展示場所を移したという記録を作り、人形をそのケースへ残した。ただ、校舎の写真を向いたままでは、来館者に背中を見せることになる。小野さんは顔をケースの正面へ向け直した。翌朝も人形は7番にいたが、顔はまた分校の写真へ向いていた。

小野さんは3日続けて正面へ戻した。人形の足元には細い紙を敷き、位置が分かるよう鉛筆で印を付けた。朝と閉館時の写真を比べると、紙の位置は同じで、人形の向きだけが変わっていた。続く1週間は、顔も動かさずに置いた。人形は7番に残り、3番へは戻らなかった。3番から7番へ移ったとする記録は繰り返しあるが、逆の向きの移動は一度もない。

小野さんは別の確認で、校舎の写真を左右へ動かしてもいた。翌朝の人形は、移した先へ顔を向けていた。人形はケースの中で決まった方角を向くのではなく、写真のある方を向いていたことになる。

分校の写真に、子どもたちは写っていない。木造校舎を正面から撮ったもので、中央に玄関、両側に窓が並んでいる。5月7日の朝、私は人形を持ち上げてもらう前に、その高さまで目を下げて向きを確かめた。顔の正面に校舎の玄関があった。

人形が分校で使われていた物なら、この配置にも理由があるのかもしれない。7番に置いていた間、来館者から「何をしている人形なのか」と聞かれたこともあったという。

「『学校を見ている』と答えれば、向きを説明しただけのつもりでも、学校の人形だと思われます。その話が、そのまま人形の来歴として広まるのが怖かったんです」

小野さんは、動きから推測した用途で説明を書き換えることに反対していた。7番へ残す試みを終えた後、人形は元の3番へ戻された。今の置き場所は、寄贈資料に残る来歴に合わせたものだという。

「来歴の分からない物ほど、分かっていることだけで並べるのが私たちの仕事です。動いた先に置けば、人形が自分で場所を選んだと私たちが認めることになります。それは資料館が決めていいことではないと思いました」

館長も同じ考えで、7番での試みを終えるときには、試した期間と人形の向きを記録に残すよう小野さんに指示したという。

5月7日も、小野さんは3番へ人形を据え、鍵を閉めた。私はその後、7番の写真の前を撮った。

霧島秀一撮影。ガラスの展示ケースの奥に、木造校舎の正面を写した古い写真が掛かる。その手前の棚には人形やほかの物が置かれていない。
霧島秀一撮影。2022年5月7日、人形を3番へ戻した後の7番の展示。分校の校舎写真の前には、人形を置いていた空間が残されている。

空いた所へ別の資料を並べることもできる。それでも小野さんは、朝に人形を持ち上げられるだけの場所を残している。

その日の午後、私は事務室で寄贈資料を見せてもらった。1971年の寄贈台帳には、受け入れた日付と「堰下 塩入家より」という記入があり、人形の欄は「木彫人形 1体 用途不明」となっている。彫った人の名も、分校の名もない。

台帳には、寄贈のときに添えられた紙が1枚、のりで貼り付けてあった。小野さんも、台帳の写しでしか見たことがなかったという。原本では、紙の端がめくれ、裏にも鉛筆の字があった。表には寄贈者の名と集落の住所、裏には別の筆跡でこう書かれていた。

「この人形は 学校の見える所に置いてください 家では戸口から分校を向けていました」

人形の用途は、台帳のとおり分からない。それでも、家でどう置かれていたかは、寄贈のときに書き残されていた。7番で人形が向いていた先は、寄贈者が頼んだ置き方とそのまま重なる。小野さんがこれまで7番で見つけてきた人形は、どれも写真の校舎の玄関を正面にしていた。

台帳の住所を手掛かりに、小野さんは塩入家の親族を探した。5月9日、南條市に住む孫の塩入節子さん(68歳)に電話がつながった。小野さんは事務室から電話をかけ、私にも聞こえるように音を出して話してくれた。

「祖母は毎朝、人形を戸口の板の上に出して、分校の方へ向けていました。子どもが学校に入るのを見ているんだと言っていましたが、何のためかは聞いたことがありません。ダムで家を出るとき、学校の見える所へ置いてもらえないなら手放さない、と言っていたのは覚えています」

節子さんによると、塩入家と分校は細い道を挟んで向かい合っていた。分校は集落と一緒にダムの底に沈み、移転先の家の窓から学校は見えなかった。祖母は引っ越してから一度も人形を箱から出さず、その年のうちに資料館へ預けたという。裏の字を書いたのが祖母本人かどうかは、節子さんにも分からなかった。

小野さんは裏の字を写真に撮り、ノートの、戻した日付が並ぶページの横に貼った。説明札は今も「堰下集落の家に伝わったもの」のままだ。

5月9日の閉館前、小野さんはいつものように3番のケースを撮った。それからノートを閉じ、7番の前の空いた棚を布で一度拭いた。

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