地方の山あいの集落には、住民が組合を作って守っている共同浴場がある。当番が毎朝湯の温度を測り、掃除をして、その日のことを日誌に書く。何十年分もの日誌が、浴場の棚に積まれていることがある。
8月31日の朝、北都県柳瀬市鳴沢地区の共同浴場で、管理組合の宮下昭夫さん(66歳)が常連客に入浴を待ってもらっていた。湯船は白くにごり、竹の湯口から落ちる湯も白い。6時に着いた私には、入口でも硫黄を思わせるにおいが分かった。宮下さんが湯船の色に気づいたのは、開ける前の5時すぎで、すぐに入口へ「しばらくお待ちください」の札を下げたという。
ふだんは透明で、においもほとんどない湯だ。現在の源泉は1962年に掘られたもの。それより山側には、昔「上の湯」と呼ばれる白い温泉があったが、1959年8月31日の大雨で土砂に埋まり、使えなくなった。
浴場は木造の平屋で、男湯と女湯に分かれている。使うのは地区の30世帯ほどで、入浴料は1回200円。朝6時に開け、夜9時に湯を落とす。
宮下さんは、「上の湯が戻ったみたいだと言う人がいます」と話した。古い湯の色を覚えている人には懐かしいらしい。組合も、埋もれた源泉から現在の管へ湯が来ていると確かめたわけではなかった。
この浴場には、1963年からの管理日誌が残っている。当番が湯の温度、掃除した日、設備の不調などを書き継いだ帳面だ。私が2021年までの59年分について8月31日の欄を調べると、41年に白濁の記載があった。最初の記載は1964年で、白くなった年は、数年続いたり、間が空いたりしている。
残る18年には、透明だったと書いた年と、温度しか書いていない年がある。毎年白くなるとは言えず、温度しか書かれていない年にどうだったかまでは分からない。それでも、同じ日に41回の記載があるため、組合は近年、湯の写真も残していた。
掃除や設備点検の日付は別に書かれ、白濁した日と重ならない。宮下さんによると、夏の終わりに薬剤を足すといった作業もしていないという。
2015年には、8月31日と翌日の湯を検査に出していた。白い湯からは、通常の湯では検出されなかった硫黄の成分が出ていたが、翌日の試料にはなかった。白く見えたという印象のほかに、成分の違いも残っていた。ただし、昔の上の湯と比較した検査ではない。
今年、組合が調べようとしたのは、どこから白くなるかだった。浴槽にたまった湯だけでなく、湯口へ来る手前でも採水する。私は宮下さんと一緒に、その作業を見た。
湯口から数メートル手前に、管を開いて中の湯を取れる点検口がある。そこから容器に受けると、湯は透明だった。竹の湯口から同じ形の容器に受けた分は、白くにごっている。
空気に触れてから色が変わる温泉もある。宮下さんは透明な方も容器に入れたまましばらく置いたが、二つの見た目の差は残った。両方の容器を並べ、採った場所の札と一緒に写真に残した。

いったん流れを止め、点検口から湯口までに別の流入がないか確認した。流し直しても、途中では透明、出口では白いという状態は変わらなかった。
宮下さんは次に、先端の竹を外した。中に何か入れられているのではないかと思ったのだという。見える範囲に異物はなく、内側を洗っても何かの塊が出てくることはなかった。竹を外した元の出口からは、透明な湯が流れた。
代わりの短い管を取り付けると透明なままで、元の竹に戻すと白くなった。竹の内部から何かが溶け出しているのかもしれない。そこで、外した竹を浴場の外へ運び、水道水を通してみたが、白くならなかった。
透明な源泉の湯を容器に取り、それを外した竹へ通しても透明だった。ところが元の位置へ取り付け、いつものように湯を流すと、また白くなる。私が見ている間に、同じ付け替えを2回試した。
水の温度や勢いまでそろえた試験ではないので、竹や流し方の影響を調べ切ったわけではない。ただ、その竹は昨年取り替えた物で、上の湯があった時代から使い続けてきた管ではなかった。
私は、その竹をどこから持ってきたのかを尋ねた。宮下さんは、決まりどおり、上の湯の跡の竹やぶから切ってきたと答えた。
「湯口の竹は、上の湯の跡のを使う。昔からそういうことになっているんです。理由は聞いたことがありません」
私は宮下さんに案内してもらい、竹やぶまで上った。浴場の裏から山道を15分ほど歩いた所で、斜面の下に、土砂に埋まった平らな場所がある。そばに「上の湯跡」と刻んだ小さな石が立ち、その奥に竹やぶがあった。去年切った竹の切り株が、まだ白く残っていた。
浴場へ戻ると、宮下さんは棚のいちばん下から1963年の日誌を出してきた。最初の頁に、浴場を開いたときの決まりが、毛筆で書いてあった。掃除の順番や、湯を落とす時刻の下に、こういう一行がある。
「湯口の竹は、上の湯の跡の竹を用いること。上の湯の湯を、ここへ通すため」
書いたのは、浴場の最初の当番だった北原吉蔵さんである。北原さんは、上の湯の湯守をしていた人だった。1959年の大雨で上の湯が埋まった後、村の人たちと今の源泉を掘り、1963年に浴場を開いた。1975年まで当番を続けたという。当番を退くとき、北原さんは次の当番に、竹は節を一つ残して切ること、切るのは上の湯の跡の竹やぶに限ることを教えたという。
日誌の竹の取り替えの記録をたどると、湯口の竹は数年ごとに替えられていた。どの年も、上の湯の跡から切ったと書いてある。白濁の記載がない年の中には、取り替えた竹がよその竹やぶの物だった年が2回あった。1988年と2003年で、その年の当番が近くの別の竹やぶから切っていた。どちらも、翌年に上の湯の跡の竹へ戻している。
入口で待っていた常連の1人が、今年は白くならなかったのかと尋ねた。村瀬キミさん(82歳)で、北原さんの娘にあたる。宮下さんが「白くなったので、竹を外しました」と答えると、村瀬さんは、せっかく出たのに、と残念そうに湯船を見た。村瀬さんは毎年8月31日だけは、開ける前の5時半に浴場へ来て、いちばんに湯に入っていたという。
村瀬さんは、若いころまで、上の湯の白い湯に毎日つかっていた。1959年8月31日の朝も、父と一緒に湯小屋にいた。雨が強くなり、2人で山を下りた後に、土砂が小屋を埋めたという。今朝の湯のにおいは、あのころの上の湯と同じだったと村瀬さんは言った。
「父は、あの湯を置いてきたと言っていました。だから、こっちへ通してやるんだと。竹を切るのも、毎回自分で行っていました」
組合は元の竹を外し、代わりの管で透明な湯を流したままにした。色が戻っただけで安全を確認したことにはならないため、入浴は引き続き待ってもらう。原因を調べる前に、年に一度の名物として勧めるつもりはないという。組合は保健所にも相談し、この日の白い湯を検査に出した。来年の8月31日に元の竹で湯を流すかどうかは、結果を見てから組合で話し合うという。
9月1日の朝、元の竹に戻しても透明な湯が出たと連絡があった。今年を加えると、60年分の日誌に白濁の記載は42回となる。
8月31日の欄には、白くなったことと、竹を外して止めたことが並んで書かれた。常連には惜しまれたが、点検を終えた宮下さんは、翌朝まで元の竹を戻さなかった。外した竹は、日誌の棚の横に立てて置かれた。村瀬さんは帰り際、その竹の口に手を当ててから、入口の戸を閉めた。



