南條市の農道の用水路に関する奇妙な記録

霧島秀一撮影。畑の間を延びる舗装された農道。左側には浅い水の流れるコンクリートの用水路が並び、少し先に水路を渡る小さな橋が見える。

田畑へ水を配る用水路には、昔の見回り役が手で書いた日誌と、今の水位計の記録の両方に、冬の朝、下流へ十分ほどだけ水が届かなかったと残る区間があることがある。

北都県南條市の郊外に、南北に延びる農道がある。その西側をコンクリートの用水路が並んで流れている。幅は1メートルほどで、底は道より低い。水は北から南へ流れ、下流の畑にある栽培用のハウスでも使うため、冬も止めない。農道の東側は今は作物のない畑で、西側の畑へ入るには、少し先にある人が渡るための短いコンクリートの橋を使う。

2024年2月17日、土曜日の朝、青果の集荷をしている古瀬泰基さん(46歳)は、この農道を軽トラックで南から北へ走っていた。農家の里見征介さん(72歳)の畑へ、収穫用の空箱を届けるためだった。橋までまだ車数台分ほどある所で、里見さんが西側の岸から腕を振った。古瀬さんは車を止め、運転席の戸を開けた。

「そこにいて。水が出るから」

連絡をくれたのは古瀬さんだった。水路があふれたのかと尋ねると、「水だけが、溝の形のまま出てきた」と答えた。私は19日に2人と現地へ行き、古瀬さんが車を止めた所から順に話を聞いた。

里見さんの言葉で水路を見ると、水面がコンクリートの縁より高くなっていた。ところが、あふれた水が斜面を伝ったり、道へ広がったりはしなかった。水の両脇には垂直な面があり、その下に平らな底が見えたという。

古瀬さんの目の前で、水の塊の下と水路の底との間に隙間ができた。水は細長い塊のまま、道の高さまで持ち上がった。持ち上がったのは、古瀬さんの車の少し先から橋の手前までだった。北と南の端には垂直な面があり、水路に残った水とは切り離されていた。西の岸にいた里見さんは、空いた溝の北の端も見ていた。北から来る水はそこで止まり、露出した底へ流れ落ちなかったという。

水の塊は農道の西の端から中央へ、さらに東へ移った。古瀬さんは車を降り、前へは行かずに運転席の横に立っていた。

「凍って運ばれているのかとも思いました。でも、葉っぱが沈んだり、浮いたりしていたんです」

塊の表面には小さな波が立っていた。水の下端と舗装の間にはわずかに隙間があり、向こうの土が見えた。透明な管も、それを支える台もなかった。やがて塊全体が東の畑の上へ移り、道路から水がなくなった。通り過ぎた舗装には、濡れた跡が残らなかったという。

私はまず、普通の説明を順に当てはめてみた。2月の朝なら、薄い氷が張ることはある。だが氷なら、中の葉は動かない。風で水が吹き上げられたのなら、道に水が散るはずだ。見間違いも考えたが、古瀬さんは道の上から、里見さんは西の岸から、別の向きで同じ塊を見ていた。2人は事前に打ち合わせもしていない。聞き取りでは、車、両岸、水の塊があった範囲をそれぞれ指してもらい、どこから何が見えたのかを地面の上で確かめた。

私は17日の水の動きを見ておらず、その朝の写真もない。そこで、記録が残る所を探した。

この水路を管理しているのは地元の土地改良区で、職員の楠田悟志さん(49歳)が見回りを担当している。下流のハウスの取水口の近くには、水の深さを10分ごとに測って送る水位計がある。冬に水が途切れれば、ハウスの暖房や水やりに差し支えるからだ。楠田さんは里見さんから話を聞き、17日の記録を出してくれていた。

記録では、17日の7時40分の値だけが、ほぼゼロになっていた。前後の7時30分と7時50分は、いつもと同じ深さだった。古瀬さんが車を止めたのは7時半を少し過ぎたころで、水が戻るまでは10分ほどだったと話している。時刻は合っていた。

「上で誰かが堰を閉めれば、深さは段々に下がって、段々に戻ります。1回だけ空になって、次にはもう元どおり、という下がり方はしないんです」

楠田さんは初め、水位計の故障を疑った。ところが、同じハウスの水やりの機械にも、7時40分ごろに「給水なし」の表示が出た記録が残っていた。二つの機械は別の会社の物で、電源も配線も別だという。里見さんは、昨年12月の朝にも同じ所で水が持ち上がったと話していた。楠田さんがその月の記録を調べると、12月16日の8時10分に、同じように1回だけゼロが入っていた。

私は19日、橋を渡って西の岸へ回り、里見さんが17日に立っていた所から水路を撮った。この日、水はコンクリートの中を流れ続けていた。

霧島秀一撮影。西側の畑から見下ろしたコンクリートの用水路。底には浅い水と小石が見え、向かいの岸のすぐ先に乾いた農道がある。
霧島秀一撮影。2024年2月19日、西側の岸から見た用水路。向かいは農道。古瀬さんは17日、この溝へ下りて渡ろうと考えた。この日は溝の中に水があった。

なぜ里見さんは、水が出ることを先に知っていたのか。尋ねると、里見さんは12月に見たことを詳しく話した。そのときも水は東の畑まで出た後、逆向きに動いて水路へ下りたという。12月と2月で時刻は違い、この朝も畑に着いてから水面が上がるのに気づいた。

「親父から聞いていたんです。ただ、自分の目で見たのは去年が初めてでした」

12月の朝、里見さんは一人で畑にいて、水が戻るまで西の岸から見ていただけだった。道を通る人もいなかったので、誰にも話さなかった。それでも、父親の言っていた水だとすぐに思ったという。

里見さんの父親は、この辺りで水番をしていた。水番とは、水路を見て回り、どの畑へどれだけ水を回すかを、堰の板を差し替えて調整する役である。楠田さんに頼むと、土地改良区の倉庫から昭和30年代の水番日誌が出てきた。毎朝、どの堰の板を何枚差したかと、下流の口へ水が届いたかが、鉛筆で書いてある。書いた人の名前はない。

その中に、「下の口 水来ず 十分ほど」という書き込みが、冬の朝ばかり7回あった。そのうち5回には、横に「渡り水」と添えてあった。日付を楠田さんと拾うと、昭和31年から39年までの冬に散らばっていて、決まった日や時刻はなかった。私が12月16日と2月17日の天気や気温を調べても、共通する点は見当たらなかった。7回のうち最後の1回には、さらに一行が足されていた。

「渡り水の間、溝へ下りるな。底が見えても下りるな。戻る水は待たない」

私は初め、溝の中で足を滑らせないための注意だと思って読んだ。だが、17日の古瀬さんの話と並べると、別の意味に見えてくる。水が東の畑へ出ている間、溝の底は空いている。橋へ回るより、底へ下りて向こう岸へ上がる方が近い。17日の朝、古瀬さんもそう考えた。

古瀬さんは、水が畑の上にある間に、空箱だけでも届けようとした。箱を重ねて抱え、空の溝を指して、里見さんに声を掛けた。歩き出す前に、里見さんが溝の向こう側へ寄った。

「下りないで。そこへ戻るんです」

しばらくすると、畑の上の水の塊が西へ寄り始めた。水は道路の上をゆっくり横切り、空いた溝の真上まで戻ると、全体が低くなった。底へ収まったところで北側の水とつながり、再び南へ流れ始めたという。水位計が次に測った7時50分には、深さは元に戻っていた。

日誌の「戻る水は待たない」は、溝に人がいても、水は上から同じ形のまま戻ってくるという意味だったのかもしれない。日誌を書いた水番が、そう書くまでに何を見たのかは、書き込みからは分からない。楠田さんは日誌の写しを取った。里見さんは、次に水が持ち上がるのに気づいたら、楠田さんへ連絡することにしている。

水が戻った後、里見さんはようやく手を下ろし、橋の方へ歩いた。古瀬さんは足元の空箱を抱え直し、荷台には積み直さず、そのまま橋まで歩いて里見さんの畑へ運んだ。

「水が入ってからの方が、渡る所が分かったんです」

箱を届けた後、古瀬さんは手ぶらで橋へ戻った。水の戻った水路は、一またぎで越えられそうな幅に見えた。それでも古瀬さんは来た道を歩き、橋を渡ってから、すぐ向こうに見えていた軽トラックに乗った。

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