双眼鏡の箱に書かれた「8倍」という数字は、遠くの物が、8分の1の距離にあるように見えるという意味である。ところが、地方の家の窓辺には、その数字どおりの所まで、見ている物の方が来てしまうことがある。
北都県南條市に住む羽坂志津子さん(71歳)は、9月の終わりから、2階の窓辺に浅い水皿を置いていた。近くへ来てくれる鳥を、驚かせずに見ていたいのだという。
鳥を見るのは、庭に面した2階の小部屋である。窓の前へ椅子を寄せ、その脇の机へ図鑑を置いていた。窓から十数メートル先には、自宅の柿の木がある。上の方の枝は2階と同じくらいの高さで、葉の間に実が残っていた。窓と木の間には、何も植えていない土の庭が続く。
羽坂さんは、黒い小型の双眼鏡を使っていた。倍率は8倍で、遠くの物を大きく見る道具である。鳥を見ている途中、急にぼやけてピントが合わなくなることがある。そのときに双眼鏡を下ろすと、鳥が窓の下枠に来ていたという。
「先に向こうが来てしまうんです。よく見ようとしている間に」
初めて窓へ来た鳥はヒヨドリだった。翌日も似た鳥が来たので、水を飲むかと思い、皿を用意した。それからは晴れた朝、窓を開けて待つようになった。来た鳥がすべて同じ個体かどうかは、羽坂さんにも分からない。
羽坂さんが気にしていたのは、鳥が窓へ移る途中を一度も見ていないことだった。双眼鏡から目を離したときには、いつも鳥はもう下枠にいる。羽坂さんは机の引き出しから、小さく畳んだティッシュを出して見せた。中には、乾いた柿の皮の切れ端が3つ入っていた。鳥が来た日の下枠に落ちていた物で、くちばしに付けて運んできたのだろうと思って取っておいたという。
ピントが合わなくなるのは、双眼鏡の仕組みからすれば不思議ではない。双眼鏡はある距離より近い物には焦点を合わせられず、見ている物が急に近づけばぼやける。羽坂さんが箱ごと取っておいた説明書には、ピントを合わせられるのは2.5メートルより先の物だと書かれていた。窓の下枠は、羽坂さんの目から1メートルほどしか離れていない。問題は、ぼやけたとき何が近づいていたかである。羽坂さんから、鳥が窓へ移るところを撮れないかと相談され、私は2024年10月12日の午前に羽坂さんの家を訪ねた。
私は部屋の中から、窓辺と庭を撮らせてもらった。窓は左右に引いて開ける形で、右半分が開いていた。網戸は左側へ寄せてある。水皿は開いた側の下枠に載り、白いレースのカーテンは右端で束ねてあった。皿の縁は乾いていた。
しばらくすると、柿の枝に灰色の鳥が止まった。尾が長く、頬に茶色い部分がある。羽坂さんはヒヨドリだと言って、双眼鏡を目へ当てた。私はその右後ろに立ち、鳥を肉眼で見ていた。
鳥は、実が1つ付いた細い枝に止まっていた。実の下側には、果肉の見えるくぼみがあった。羽坂さんが真ん中のつまみを回している間に、葉が窓のすぐ外へ現れた。
最初は、別の枝が上から垂れてきたのかと思った。葉の下から、くぼみのある柿が出た。その横に鳥の脚があり、続いて灰色の胸が見えた。鳥が翼を広げて飛んでくるところはなかった。足は細い枝をつかんだままだった。
枝先は、開いた窓へ斜めに差し込む位置にあった。葉が束ねたカーテンへ触れ、薄い布を部屋側へ押した。私は双眼鏡を使っていなかった。顔を右へずらしても、葉はカーテンの手前にあり、その向こうには庭が見えていた。
庭の柿の幹は元の場所に立っていた。窓辺の枝を太い方へたどると、窓の外で途中から見えなくなる。そこから幹まで、葉も枝も続いていなかった。先ほど鳥がいた木の上方には、葉の間から向こうの塀が見える隙間ができていた。
羽坂さんが「またぼやけた」と言った。私は枝が窓へ来ていると伝え、そのまま動かずにいてほしいと頼んだ。羽坂さんはつまみから指を離した。双眼鏡はまだ目に当てていた。
ヒヨドリは枝の上で足を入れ替え、窓の下枠へ跳んだ。羽坂さんのすぐ前だった。鳥は水皿の縁に片足を掛け、くちばしを水へ下ろした。
羽坂さんが双眼鏡を下げた。
カーテンを押していた葉がなくなり、布が窓枠へ戻った。柿も枝も目の前から消えた。庭の木を見ると、さっき空いていた所に、実の付いた枝があった。その上に鳥はいなかった。ヒヨドリは窓の下枠に残り、水から顔を上げていた。
私は羽坂さんに、鳥が庭から飛んできたのではなく、止まっていた枝が窓の所に現れたと話した。葉が触れたカーテンも示した。羽坂さんは、鳥と庭の木を交互に見た。
「そんなに近いとは思いませんでした。のぞいているから、大きく見えるんだと」
羽坂さんが使っていた双眼鏡を、私は机へ置いてもらった。鳥は水皿から離れ、開いた窓の下枠を歩いた。羽坂さんは部屋の奥へ椅子を引いた。鳥が飛び立つ場所を空けるためだった。
ヒヨドリは部屋側へ首を伸ばし、机の方を見た。羽坂さんは、元の枝へ戻した方がよいのではないかと言った。机から双眼鏡を取り、庭の木へ向けかけたが、目へ上げる前に止めた。
「これだと、枝がこちらへ来るんですね」
私は、先ほど見たのはそうだったと答えた。羽坂さんは双眼鏡を膝へ置いた。窓の下枠には水皿と鳥があり、その先の柿の木までは庭が続いていた。
私たちは窓から離れて待った。ヒヨドリは下枠の端まで歩き、外へ体を向けた。翼を開いて窓から離れ、庭を横切り、柿の木の低い枝へ入った。今度は途中が見えていた。
羽坂さんは椅子から立ち、水皿を机へ移した。鳥が止まっていた下枠には、小さな濡れた跡が残っていた。私は断って、皿をどけた窓辺を撮った。

次に、距離を確かめた。羽坂さんの目から、さっき枝先が現れた所までは1メートル半ほどだった。巻き尺を持って庭へ下り、窓の真下から柿の幹までを測ると、14メートル余りあった。高さの分を足すと、羽坂さんの目から実の付いた枝までは15メートルほどになる。その8分の1は、2メートルに満たない。枝先が現れたのは、双眼鏡の中でその枝が見えるはずの距離と、ほぼ同じ所だった。
私は自分のカメラに望遠のレンズを付け、窓から同じ枝をのぞいた。倍率はほぼ同じにしたが、枝は木の上から動かなかった。ファインダーの中で、くぼみのある柿の横の葉に、白い糸くずのような物が引っ掛かっているのが見えた。
羽坂さんと、束ねたカーテンの端を調べた。窓側のレースの縁に、糸が1本ほつれて短くなった所があった。朝、羽坂さんがカーテンを束ねたときには、ほつれに気づかなかったという。
羽坂さんは、もう一度ティッシュを開いた。3つの柿の皮の切れ端には、どれも鳥がつついたような細かい傷があった。羽坂さんはしばらくそれを見てから、ティッシュを畳み直した。運んできたのは鳥だけではなかったのかもしれない、とだけ言った。
帰る前、羽坂さんは庭へ下りてきた。柿の木の下で実を見上げた。
「また来てくれると思って、水を替えていたんです」
羽坂さんは、2階の開いた窓を見た。木の下から家の外壁まで歩き、そこから振り返った。窓から見ていた鳥がいたのは、十数メートル先の木の上だった。
14日の朝、羽坂さんから電話があった。窓を開けて待ったが、鳥は来なかったという。双眼鏡は使わず、水皿も机の上に置いたままだった。
庭の柿には鳥が来ていた。羽坂さんは図鑑を開いたが、頬の色までは見えなかったと話した。前と同じ鳥か尋ねると、分からないという返事だった。それから、「来なかった」と言ったのは窓のことだと付け足した。
「木には、来ていたんです」



