南條市の民家の玄関脇の紺の上着に関する奇妙な記録

霧島秀一撮影。牧嶋家の玄関脇のハンガーに、紺色の上着が掛かっている。袖は下へ垂れ、近くに玄関の戸と床の段差が見える。

地方の火葬場では、火葬が終わると家族が収骨室へ入り、台に並んだ骨を箸で拾って骨壺へ納める。係の職員が、どの骨がどこの骨かを説明しながら手順を示す。骨は形の残ったものと、崩れた小さなかけらが混じっている。拾い終えた骨壺は家へ持ち帰り、四十九日まで祭壇に置く。

収骨の台の上で、火葬を終えた骨が人の形に集まり、息子に上着を持ってくるよう頼んだ。北都県南條市内の火葬場で、2024年11月4日に起きたことである。骨になった牧嶋和章さん(享年81歳)の長男、智成さん(52歳)から、自宅へ戻った父に会ってほしいと7日に連絡があった。智成さんとは、以前地域の催しで取材をした縁がある。

11月10日、私は牧嶋家を訪ねた。玄関を開けたのは、灰色のズボンとシャツを着た、骨だけの人だった。頭の丸い骨には目や鼻の穴があり、そこを覆う皮膚はなかった。挨拶に合わせて顎の骨が下がった。首には細い骨が連なり、その間から向こうの白い壁が見えた。その人は「牧嶋和章です」と名乗り、上がってくださいと言った。紐や支柱が体へつながる様子はなかった。

和章さんは市内の製材所に40年勤め、退職してからは庭の手入れと町内の役を続けていた。9月の末に肺炎で入院し、11月2日に病院で亡くなった。智成さんによると、口数の少ない父親だったという。

居間には智成さんと、和章さんの妻の久枝さん(78歳)がいた。私は和章さんに生前会ったことがない。以下では、名乗った人を「骨の人」と記す。家族は和章さんとして接しているが、同じ人かどうかは、私には分からない。

骨の人は椅子へ座り、シャツの襟を開いた。首から胸へ続く骨の間には、シャツの背中側の布が見えた。喉や胸の肉はない。それでも、椅子をこちらへ寄せてよいかという声が聞こえた。

火葬場での経過を、智成さんと久枝さんに聞いた。収骨室の台には、形の残った骨と崩れたかけらが並んでいた。職員が説明を始める前に、台の端にあったかけらが中央へ寄った。長い骨が回り、短いかけらがその端へ重なった。頭に当たる丸い部分も、割れ目を残したまま持ち上がった。久枝さんは職員の手を見たが、両手は台から離れていた。

骨の腕が台を押し、頭と胸が起きた。智成さんが久枝さんの肩を引くと、骨の人が顔を向け、「どうした」と言った。その声を聞き、久枝さんは夫の名を呼んだ。職員は家族を台から離し、警察と救急にも連絡が入った。骨の人は別室の椅子に座り、毛布を掛けられていた。

上着を頼まれたのは、その部屋だった。「いつもの、戸のところに掛かっているやつ」と言われたという。智成さんはいったん帰宅し、玄関脇に掛かっていた紺の上着を持ってきた。骨の人は袖を通すと、左のポケットへ手を入れた。「鍵は」と尋ねられ、智成さんは、父が入院したときに預かったままだと答えた。

骨の人はその日、病院へ運ばれ、家族も付き添った。私が診察の結果を読んだわけではない。6日に家へ戻ったことは家族から聞き、12日には火葬場の職員からも、台の骨が動いて家族を別室へ移したところまで話を聞けた。職員は、長く勤めてきたが、このようなことは初めてだと話した。原因についての説明はなかった。

久枝さんによれば、骨の人は台所の棚の位置も、家へ来る知人の名も覚えていた。朝には和章さんの椅子へ掛ける。私が4日のことを尋ねると、骨の人は、妻と息子が黒い服で立っていたところから覚えていると答えた。自分が亡くなり、火葬されたことは聞いた、と言った。説明しながら、右手で左の袖口を折り返した。手首には骨の継ぎ目が見えていた。

この日は、和章さんの元同僚の塩垣達夫さん(79歳)が午後に来ることになっていた。葬儀へ出られなかったため、線香を上げに来たいと久枝さんへ電話があった。久枝さんは、骨の姿で戻って家にいることも伝えたが、それでも伺いたいという返事だった。

居間の隣の和室には、和章さんの遺影と花が置かれていた。紺の上着を着た写真だった。座布団が遺影の正面に1枚、その脇にもう1枚あった。骨壺を置くはずの場所は空いていた。私は客が来る前に、和室を撮らせてもらった。

霧島秀一撮影。牧嶋家の和室。遺影と花を置いた低い台の正面に座布団が1枚あり、台の脇にももう1枚ある。人は写っていない。
霧島秀一撮影。2024年11月10日、弔問客が来る前の和室。座布団は遺影の正面と、その脇に1枚ずつ置かれていた。

呼び鈴が鳴ると、骨の人は紺の上着を羽織り、玄関へ出た。塩垣さんは顔を見て立ち止まった。骨の人が「遠かったでしょう」と言うと、塩垣さんは一度うなずき、もう一度その顔を見た。

「声は、同じだな」

塩垣さんは靴を脱ぎ、久枝さんに和室へ案内してもらった。骨の人は、塩垣さんが脱いだコートを受け取り、玄関のハンガーへ掛けた。その後から和室へ来て、遺影の脇の座布団に座った。塩垣さんは線香を供え、写真へ両手を合わせた。左手の指は、薬指と小指が根元から欠けていた。

骨の人が、今はどこに住んでいるのかと尋ねた。塩垣さんは手を合わせたまま横を向き、「ちょっと待ってくれ」と答えた。

骨の人は立ち上がり、居間の隅の机へ行った。上着の左のポケットから小さな鍵を出し、いちばん下の引き出しを開けた。鍵は6日に家へ戻った日、智成さんが上着へ入れておいたものだった。骨の人は引き出しから白い封筒を出し、和室へ戻って塩垣さんの前へ置いた。

宛名は「塩垣達夫様」で、切手が貼ってあったが、消印はなかった。裏には平成31年の日付と和章さんの名前があった。久枝さんも智成さんも、その封筒を見たのは初めてだった。塩垣さんは断ってから封を切り、便箋を読んだ。私は塩垣さんの了承を得て、その一部を書き写した。

「昭和62年の製材所の事故は、段取りを決めた私の誤りだった。報告書には君の名を書いた。班長を外されるのが怖かった」

塩垣さんは、その事故で左手の指を2本なくした。報告書では、機械の扱いを誤った本人の過失とされた。塩垣さんは翌年、製材所を辞めた。柳瀬市へ移り、運送会社の倉庫で定年まで働いた。和章さんとは、それから一度も会っていなかったという。年賀状だけは毎年、和章さんの方から届いていた。添え書きはなく、印刷の文面だけだった。塩垣さんの方からは、一度も出していない。葬儀へ来なかったのは、遠かったからではなかった。

「今日は、一度だけ聞くつもりで来たんです。あの日の段取りを決めたのは誰だったか」

骨の人は座布団に座り直し、それはもう手紙に書いてある、と言った。自分の口から言うのは、これが初めてだとも言った。久枝さんは、夫が5年前の春に、机の引き出しの鍵を自分で持ち歩くようになったのを覚えていた。何をしまっているのかは聞かなかった。智成さんは、入院の日に父から鍵を預かったとき、なくさないようにとだけ言われたという。

智成さんは、父が製材所の事故のことを家で話したことは一度もなかったと言った。塩垣さんの名前も、年賀状の束の中で見たことがあるだけだった。

塩垣さんは骨の人に、なぜ出さなかったのかと尋ねた。骨の人は少し間を置き、切手を貼ったところで、返事が来ないのが怖くなったと答えた。返事が来なければ、それが返事になる。引き出しに入れておけば、まだ出していないだけで済んだという。

塩垣さんは便箋をたたんで封筒へ戻した。それから、遺影の前の空いた場所を見た。骨壺を置くはずの所だと、久枝さんが言った。

塩垣さんは封筒をその場所へ置き、遺影へもう一度手を合わせた。骨の人は膝の上へ両手をそろえた。上着の袖から、白い指が出ていた。塩垣さんが欠けた左手を下ろすまで、その指は動かなかった。