地方の図書館には、本は棚にそろっているのに、昔の貸出が「返った」とはどこにも書かれていない空白が残っていることがある。
「父は返したはずです」
2021年2月26日の金曜日、北都県南條市の南條市立図書館の窓口で、男性が古い本の返却を確かめてほしいと申し出た。司書の高橋奈津代さん(仮名)が棚からその本を持ってくると、男性は中身を読まず、背の番号を確かめた。それから、本があるだけでは困ると言った。
求めていたのは、父親が借りた本を返したという証明だった。貸出日は昭和56年3月3日。40年前の話である。
本は1961年に刊行された『南條郷土誌』で、町の歴史や古い地名をまとめたものだ。今は館内だけで読む資料として、2階の郷土資料の棚に置かれている。同じ内容のもう1冊が書庫にあり、開館中なら誰でも読める。
男性が持ってきたのは、返却を求める古い通知の写しだった。本の名、父親の名前、昭和56年3月3日の貸出日が書いてある。父親は入院していて、夜になると「返した。窓口で受け取りましたと言われた」と繰り返す。家を片付けていて通知が出てきてから、それが続いているのだと男性は話したという。
当時の貸出は紙のカードで管理していた。本の後ろにカードを入れる袋があり、貸し出すときは、借りる人の番号と日付をカードに記入して窓口で預かる。返却を受けた職員がカードを本の袋へ戻すと、その本は貸出中ではなくなる。今は本ごとの番号で貸出状況を調べられるが、40年前に誰が借り、誰が返したかまでたどれる資料は窓口に残っていない。
高橋さんは、棚の本と書庫の本がどちらもそろっていること、今は未返却として扱っていないことを説明した。
「それなら、父が返したと書いてもらえませんか」
高橋さんは、いま本があるという説明と、父親の返却を確かめたという証明は違うと答えた。通知の写しを預かって調べることも提案したが、男性は持ち帰った。連絡先は聞けたものの、その日は借り出しの手続きをしておらず、身分証までは確認していない。
3月2日の午前7時半、出勤した職員が、非常口のガラスが割られているのを見つけた。前夜の閉館時には異常はなかった。破片は館内に散り、泥のついた靴跡が郷土資料の棚まで続いていた。現金や機器は残り、『南條郷土誌』1冊がなくなっていた。私は盗難の話を聞いてその日の午後に図書館を訪ね、窓口であったやり取りも高橋さんから聞いた。
靴跡は非常口から郷土資料の棚へまっすぐ向かい、同じ道を戻っていた。ほかの棚の前で迷った跡はない。郷土資料の棚は開館中なら誰でも見られる場所で、どこにあるかを知っている人は少なくない。それでも、侵入した人は暗い館内で、ほかの本には手を付けずにこの1冊だけを持ち出していた。
翌3日の朝、高橋さんが正面の返却ポストの回収用の扉を開けた。返却ポストは、外壁の投入口から入れた本が館内側の箱に落ちる仕組みで、職員が毎朝鍵で扉を開けて回収する。その箱の中で、本が底から離れた所にあった。背を握る片手が、本をこちらへ差し出していたという。
高橋さんは両手で本を支えてから、手を伸ばしている相手を見ようとした。ところが、手は手首の所で終わっていた。その先に腕はなく、向こうには箱の底が見える。手と箱の壁の間も空いていた。本の背をつかむ指だけが、高橋さんが支えても離れなかった。
本を落とすわけにもいかず、そのまま支えていた高橋さんは、窓口でいつも言っている言葉を口にした。
「受け取りました」
そのあと指が開き、手はどこかへ引っ込むことなく、その場で見えなくなった。本だけが高橋さんの両手に残ったという。高橋さんは館内の職員を呼び、盗難を調べていた警察へ、本の回収といま見たことを連絡した。
背の番号は盗まれた本と一致し、後ろの袋には紙の貸出カードが入っていた。日付は「56.3.3」、青い印は「南條町立図書館」。町が市になり、図書館の名も変わったのは1981年の春だった。
3日の午後、私は職員が撮影した写真を見せてもらった。本とカードを警察に渡す前に、袋に入っていた状態を撮ったものだった。

カードの日付は、男性が示した通知の貸出日と同じだった。ただし、本の後ろには今年2月の棚の点検で押した印もある。職員はその印と管理番号を見て、最近まで館内にあった1冊だと確かめていた。40年前から借りられたままの本が、初めて戻ったわけではない。点検のときに袋にカードがあったと覚えている職員もいなかった。
このカードを誰が入れたかは分かっていない。窓口に来た男性の申し出も警察へ伝えられたが、男性が非常口を壊したと示す証拠はない。職員は、カードを見ただけで昔の返却を証明することはできないと言った。
3日の夜、私は市になる前後に窓口にいた元司書の村瀬多喜子さん(仮名、72歳)に電話で話を聞いた。村瀬さんによると、未返却の通知は、窓口で預かったカードが返却期限から1か月たっても残っている人に送っていた。職員の了解を得て写真を送ると、村瀬さんはまず日付に目を留めた。
「当時は、日付をペンでは書きませんでした。日付印を押していたんです。それと、名前が変わる前は、町立の印を押した白いカードがたくさん余りました。新しい印に替えたとき、余ったカードは裏をメモに使ってくださいと、職員や手伝いの人に配りました」
写真のカードの「56.3.3」は、手で書いた数字に見えるという。町立の印のある白紙のカードは、1981年の春から館の外にも出回っていた。そこへ通知の写しにある貸出日を書き入れれば、40年前の貸出カードに見える物は作れる。
村瀬さんは、返却を受けるときの言葉も覚えていた。
「受け取りました、と言ってからカードを袋に戻すんです。言わないと、お客さんは本当に返せたのか不安になりますから」
男性の父親が繰り返している言葉も、高橋さんが箱の中へかけた言葉も、もとは同じ窓口の決まり文句だった。考えられるのは、誰かが通知と同じ日付のカードを用意し、館内の本を持ち出して、返却ポストから返したという流れだ。そうすれば、図書館の職員がその本を受け取ることになる。
職員は毎朝ポストの本を回収し、番号を確かめる。貸出中なら返却の処理をするが、今回の本は館内資料で、貸出中の本として画面に出てこなかった。そのため、誰かの貸出を取り消す処理はせず、回収した本の番号と時刻を、その日の作業の控えに書いた。私が見せてもらった控えには、管理番号の横に鉛筆で「館内資料 ポスト 8時40分」とある。この控えには、少なくとも3月3日の朝にこの本を図書館の職員が受け取ったことが残る。
高橋さんは3日の夕方、2月26日の男性に連絡し、手から本を受け取った経過も説明した。ただ、父親が返したという証明にはできないと伝えた。男性は、今年の回収日を書いた紙では困ると言ったという。
「それだと、父が40年間持っていたことになりませんか」
高橋さんが、借りていた人を特定した紙ではないと説明しても、男性は今年の日付を入れないでほしいと求めた。
非常口のガラスは取り替えられ、棚には書庫のもう1冊が出された。持ち去られた本とカードは警察が預かっている。
最後に男性は、日付は要らないので、「受け取りました」と父親の名前を宛先にして書いてほしいと頼んだ。高橋さんが箱の中へ声をかけたときと、同じ言葉だった。
高橋さんは、相手の顔を見ていないと答えた。男性は、父親の写真を持っていけば確かめられるかと聞いたという。
高橋さんは、手まで写っている写真はないかと聞いた。


