地方の住宅地では、使わなくなった家具を、近所の人に譲ることがよくある。粗大ごみに出すには手数料がかかり、捨てるには惜しい物も多い。欲しい人がいると聞けば、写真を送り、台車で運んでいく。譲る側にとっては、片付けと親切が一度に済む。
「誰か座っているのかと思って、晴枝さんに聞きました」
そう話すのは、北都県南條市に住む丸瀬早苗さん(仮名、57歳)だ。2022年12月18日の夕方、友人の晴枝さん(仮名、58歳)の家の居間で、譲り受けたばかりの肘掛け椅子から、掛かっていた毛布が人の形で立ち上がるのを見たという。晴枝さんから私に連絡が来たのは、その2日後だった。
晴枝さんは、居間で本を読むための椅子を探していた。床に座って読むより、背中を預けられる物が欲しかったという。近所でその話をしたところ、12月16日、近所に住む戸口康孝さん(仮名、63歳)から、使っていない椅子があると写真が届いた。
緑の布張りで、木の肘掛けが付いた一人用の椅子だった。写真では座面に破れがなく、毛布も掛かっていなかった。戸口さんは代金はいらないと言った。晴枝さんは置く場所の幅を測り、日曜日に運んでもらうことにした。

18日の午前、戸口さんは台車に椅子を載せて来た。灰色の毛布が背もたれから座面を覆い、縁の紺色の線が前に垂れていた。戸口さんは、運ぶときに木を傷つけないために掛けたと説明した。
晴枝さんと戸口さんは、2人で肘掛けを持って椅子を居間へ入れた。棚の横へ置くと、戸口さんは毛布を広げ直した。もう使わないので、これも残していくと言った。晴枝さんは昼から出掛ける用事があり、そのままにして家を出た。
夕方、晴枝さんから借りた本を返しに、早苗さんが訪ねてきた。2人は居間の低いテーブルを挟んで座った。晴枝さんからは椅子の正面が、早苗さんからは横が見えていた。
最初に気付いたのは早苗さんだった。毛布の中央が座面へ深く沈み、その上に肩のような左右の膨らみができた。前に垂れていた部分も、曲げた両膝を覆ったように持ち上がっていたという。
晴枝さんも椅子を見た。毛布の上端が背もたれから離れ、ゆっくり高くなった。膝に見えた所の折れ曲がりが伸び、布の裾は床へ下りた。肩に見えた部分は、椅子の背より高い所にあった。
毛布全体が椅子から離れ、床を引きずりながらテーブルの方へ進んだ。晴枝さんは、裾の下から足が出るのを待っていたと話した。足も靴も見えなかった。背の高い膨らみを保ったまま毛布が止まり、上端から折れるように床へ落ちた。重なった布の下に、人の厚みはなかった。
居間には2人のほかに人はいなかった。晴枝さんは入口から動いておらず、毛布の下から廊下へ出た人もいない。早苗さんも、布を支える棒が倒れたり、何かが椅子へ戻ったりするところは見ていないと話した。
晴枝さんは毛布に触れず、戸口さんへ電話した。毛布が立ち上がったと話すと、戸口さんは「そちらでもですか」と言ったという。
その夜、晴枝さんは早苗さんの家に泊まった。翌日、早苗さんと自宅へ戻り、警察にも相談した。人が入ったかどうかだけでなく、椅子を渡す前から戸口さんが何を知っていたのか、確かめてほしかったという。警察は窓や勝手口を見て、人が入った跡はないと伝えた。椅子と毛布については、持ち主どうしで話し合うよう言われた。
私は12月22日に晴枝さんの家を訪ね、早苗さんにも来てもらった。2人の話す順序は一致していた。椅子は棚の横にあり、毛布は前の床に落ちたまま残されていた。私は毛布の動きを見ていない。触れずに、椅子と床を撮影した。毛布は灰色のウールで、縁に紺色の線が2本入っている。端の一か所に、小さな焦げ跡のような穴があった。
同じ日の夕方、晴枝さんの了承を得て戸口さんへ電話した。戸口さんは、椅子を譲る前にも、掛けた毛布が人の座った形になり、椅子から離れて床へ落ちたことがあると認めた。2022年の秋から何度もあったという。
私は戸口さんに、晴枝さんにはなぜ伝えなかったのかと尋ねた。
「言ったら、もらってくれないでしょう」
戸口さんは、自分の家から椅子を出したかったことは認めた。椅子と毛布のどちらで起きていたのかを聞くと、「それは分からない」と答えた。
晴枝さんは、もう一つ気になっていることがあった。近所で椅子の話をしたのは、自分からではなかったという。12月の初め、ごみ置き場の前で戸口さんに、居間で本を読むのかと聞かれた。そのとき、椅子が欲しいと答えた。
晴枝さんの家の隣に住む人が、11月の回覧板を取っておいていた。町内会の連絡の紙に、手書きの「譲ります」の欄があり、「肘掛け椅子(緑) 毛布付き 戸口」と書かれていた。引き取り手は現れなかったという。晴枝さんは10月に越してきたばかりで、その回覧板を見ていなかった。
晴枝さんに届いた写真には、毛布は写っていなかった。回覧板では、椅子と毛布は一緒に譲る物として書かれていた。
戸口さんに回覧板のことを尋ねると、晴枝さんへ写真を送る前に、毛布を外して撮ったと認めた。「毛布付きと書いたら、誰も手を挙げなかったので」と話した。運ぶ日に毛布を掛けてきたのは、傷よけのためでもあったという。
12月24日、戸口さんが椅子を引き取りに来た。晴枝さんに頼まれ、私も同席した。戸口さんは居間の入口で床の毛布を見てから、椅子の横へ回った。晴枝さんは、持ってきたときと同じように、毛布も椅子へ掛けて運んでほしいと頼んだ。
戸口さんは毛布を拾わなかった。
「椅子だけなら持って帰ります。毛布はもう差し上げた物です」
晴枝さんは、どちらも返したいから来てもらったのだと答えた。それなら帰りも傷よけに掛ければいいと言うと、戸口さんは肘掛けから手を離した。
「それも一緒にしたら、ここへ持ってきた意味がなくなるんです」
戸口さんは、持ってきた台車を空のまま押して帰った。
12月26日、戸口さんの姉の典子さん(仮名、66歳)から、晴枝さんへ電話があった。典子さんは市内の別の地区に住み、弟から話を聞いたという。椅子は、2021年の冬に亡くなった父親が、居間で毎日座っていた物だった。灰色の毛布も、父親が膝に掛けていた物だという。
「父は、夕方になると毛布を肩に掛けたまま立って、居間のテーブルへ行くんです。食事ができたと呼ばれる前に」
典子さんによると、父親が亡くなってから、戸口さんは父親の物をひとつも捨てられずにいた。秋に家を片付けると決め、ほかの物は親戚に配った。椅子と毛布だけが残ったという。
典子さんは、毛布が立ち上がる話を、弟から何度か聞いていた。そのたびに、捨てられないなら自分が預かると言ったが、戸口さんは断った。姉の家に移しても、父親の物を手放したことにはならないと話していたという。
晴枝さんは、戸口さんが自分の家から椅子を出したかったことは責めないと話した。ただ、毛布のことを伏せ、写真から毛布を外し、毛布ごと置いていったことは、別の話だと言った。
12月30日、典子さんが戸口さんと一緒に来た。典子さんは床の毛布を拾い上げ、縁の紺色の線をそろえて四つにたたんだ。それを椅子の座面に置き、2人で肘掛けを持って台車へ載せた。毛布はたたんだまま動かなかった。椅子は戸口さんの家の居間へ戻し、毛布は典子さんが自分の家で預かるという。戸口さんは玄関で、晴枝さんに黙って一度頭を下げた。それから典子さんと2人で、台車を押して帰っていった。


